「気分は下剋上　月見２０２５」７

「それは、個人の能力や働き方への意識など様々な要因が絡み合いますので一概には言えません。フリーランスの医師は自営業者と同じで、手術のオファーが来ないと収入は途絶えます。ただ、執刀のギャラは言い値らしいですね」
　久米先生だけでなく、医局の皆が聞き耳を立てている。やはり世界中の外科医の憧れの的である国際公開手術の成功術者のことは関心があるのだろう。
「言い値ですかっ！例えば一億円と言ってもいいのですか？」
　久米先生は夢見るカバといった感じだった。
「相手がイエスと言えば交渉は成立します。石油王とか世界の王族などの資産は物凄いらしいですから、多くの有名な外科医が文字通り匙を投げた容態だった場合、成功報酬でその十倍をもらうというケースもあるみたいですね」
　イギリスで仕入れてきた知識を披露した。
「じゅ……十倍というと五億円ですか！？」
　久米先生は変なところでミスをする。記憶力はいいはずなのに、祐樹が吸っているタバコの銘柄は、空箱を渡しても違う銘柄しかコンビニで買ってきたことしかない。何故間違うのかが理解不能だ。最近は諦めの境地に至ってどうしてもタバコを吸いたいときは祐樹が買いに行っている。
　祐樹がどうしても救えなかった命があった日には最愛の人にしか教えていない隠れ場所に行ってタバコを吸ってコーヒーを飲みながら本を読んだりスマホで他愛のない動画を見たりして遣る瀬ない思いを吹っ切る儀式のようなものにはどうしてもタバコが必要だ。
　久米先生は暗算も得意なはずなのに、一億の十倍が何故五億円になるのだろう？桁が大きくなると割と優秀な脳にバグでも発生する仕組みなのだろうか。近くにいた医師の肩が揺れている。視線を合わせたらお互い爆笑必至なので誰とも目を合わせずに淡々と説明することに専念しよう。色々と問題はあるものの、香川外科で国際公開手術の術者になれるポテンシャルを持っているのは久米先生だろうという判断は最愛の人と祐樹の共通認識だ。
「一回の手術で日本人の生涯年収を超える医師も実際にいるらしいですね。アッシュベリー先生もその一人だそうです。逆に病院所属だと給料と、そしてインセンティブがもらえることもあるようですね。プロ野球のような年俸制の病院が多いみたいですよ」
　久米先生の目がらんらんと輝いている。これは暴走の前触れだ。
「もしかして！大谷選手のようなすごいお金なんでしょうか？」
　祐樹は全く野球に興味がないが、主治医を務める患者さんとの共通の話題を作るために断片的な知識はある。確か、大谷選手の場合、十年契約総額七億ドルの契約だったはずだ。
「そこまでは知りません。しかし！」
　暴走する妄想を止めるために久米先生の額を指で弾いた。
「重大な前提条件があります。国際公開手術の成功術者のリストに名を連ねることです！」
　久米先生は真剣な表情を浮かべ、背筋を伸ばした。
「何が何でも招待状が来るように必死に努力します！石にかじりついてでも！目指せ、大谷選手の年俸越えです！」
　やはり久米先生の暴走する妄想はリニアモーターカーのように制御不能らしい。リニアが世界で事故ったというニュースは知らないが。
「そのためには執刀を増やすことですね。しかし、手術室に空きはないですし、教授の手技を慕って国内外から患者さんが押し寄せてくる現況を考えると他の病院で修業をするしかないと思いますが、それもなかなか難しいかと」
　祐樹の話を聞いているのかいないのか、久米先生は野望に燃えた目をしている。
「清水先生の実家って京都一の大病院ですよね？そして、清水先生のお父様は斎藤病院長の親友だと凪の時間に聞きました！……田中先生、斎藤病院長に何としてでもアポを取るか、清水先生に土下座でもして、お父様に紹介してもらうように頼むのとどっちがいいですか？」
　何ならここで土下座をするような勢いだった。
「……それはおいおい考えることにして、まずはその余ったお金で温泉ではなく、ホテルのスイートルームでも予約をし、岡田看護師にきちんと行先と日程を告げるべきです。杉田師長も常に言っていますよね？『あれもこれもやろうとしない。優先順位をまず決める！』と。真理だと思います」
　何を思ったのか久米先生は祐樹のデスクからメモ用紙を勝手に取って瀕死のミミズのような字で「ホテルのスイート予約　マイハニーに土下座　清水先生に予告」と書いている。土下座する相手と予告する人を取り違えているのは頭の中に一万円札が乱舞しているのかもしれない。冷静になれば、多分清水研修医に土下座して清水院長とのアポを取り付ける程度は思いつくだろう。
　とにかく、これで最愛の人と温泉でまったり過ごせそうだ。何だか長い会話だったが、久米先生も物凄い馬力で手技を磨いてくれるのならよかったと思おう。香川外科から三人もの国際公開手術の成功術者が出るのは名誉なことに違いないのだから。

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