「柏木先生、准教授会が残念ながら延長になったようです」
黒木准教授は外科的なセンスは並みといったところだが仕事は早い。医局で何かが起こったとき、すぐに連絡が取れるように情報を書き換えたのだろう。兵頭さんのウツの件を早く相談したかったが、それは祐樹の勝手な都合だと気持ちを切り替えた。
「そうか。それは仕方ないな。重要なことなので待機していてくれ」
柏木先生は広瀬看護師に指示を出したのか彼女がお辞儀をして医局を出て行った。祐樹も喉が渇いたので自販機でミネラルウォーターでも買おうと思い立って席を立った。
「田中先生、先ほどは本当にありがとうございました」
自販機の前に立ってボタンを押していた祐樹は、綺麗な声だと思いながら振り返ると、広瀬看護師が深々と頭を下げていた。祐樹は「そういう目」で見ることは一切ないが、美人は声まで綺麗なのかと思ってしまった。最愛の人と二人で見る「鬼退治アニメ」の劇場版の舞台挨拶の動画でも、声だけでなく顔も綺麗な人ばかりだった。ちなみに他のアニメはそこまで追っていないので、声優さんの容姿に詳しいわけではない。
「いえ、特別なことは何もしていませんよ。少なくとも香川外科ではハラスメントをなくしたいと思っています。それに……」
あとは黒木准教授に相談に行くだけでその準備は全て整っている。何となく会話がしたいと思った。病院内は、文字通り壁に耳あり障子に目ありの世界だが、自販機のエリアはエアポケットのように人の気配は皆無だった。
「それに、今は医師よりも優秀な看護師のほうが貴重なのです。セクハラが嫌で離職し他の病院に行くようなことはあってはならないと思っています」
広瀬さんは瞳をキラキラさせている。
「優秀などとおっしゃられては困ります。三好先輩のオーダーをこなすだけで精一杯です」
いや、三好看護師に気に入られていること自体が優秀な看護師、もしくはそのポテンシャルがある証だ。
「ああいう目で見られるのは不快ですよね。よくあるのですか?あ、不快だったら答えなくていいです。ちなみに何か飲まれますか?この程度なら奢ります」
気になって聞いてみた。看護師不足は最愛の人も問題視しているので、生の声を聞いてみたいと思った。それに、アダルトDVDや配信でも、セーラー服と並んでナース服は人気だとどこかで読んだ。だから患者さんなどにも久米先生のような目で見たり卑猥なことを言われたりすることもあるのではないかと思った。
普通ならそういうコンテンツはフィクションだと分かりそうなものだが、同一視をする人もいるだろう。広瀬さんは薄いピンク色に塗られた唇に笑みを浮かべている。
「ありがたくごちそうになります。『午後の紅茶 ミルクティー』をお願いします」
思わぬ偶然に自然に笑みを浮かべ、自販機から出てきたペットボトルを渡しながら口にした。
「これ、私の恋人も大好物なのです」
とはいっても、病院内で飲んでいる姿を祐樹は見た覚えがない。医局に下りてきたときには医局の不味いコーヒーを飲んでいる。
「才色兼備の商社レディーと同じ好みなんて光栄です」
祐樹が故意に流したウワサを広瀬さんも知っているらしい。それに何だか先ほどよりも親しげな笑みに変わっている。
「ここだけの話ですけれど、ああいう視線は多すぎて数えきれないです。特に病院内のほうがひどいです」
やはりフィクションと現実の区別がついていない人間が多いらしい。大学時代の同級生と話していたときにも「高校のときはセーラー服で電車通学だったのよ。毎日のように痴漢に遭ったのだけれども、卒業して私服で同じ時間帯の電車に乗ったら全然遭わないことに気が付いたの。セーラー服の効果ってすごいと思った」と言っていた。その彼女は平均そのものといった容姿だった。男の性欲は着ているもので変わるのだろう。祐樹には全くそういう心境は分からない。それは性的嗜好の問題なのか個人差なのかまでは分析不可能だ。
「逆に、病院内というか仕事時間中に『そういう目』で見ない男性のほうが珍しいです」
ミルクティーを美味しそうに飲みながら広瀬さんは声を小さくしている。
「そうなのですか?」
そんなに嫌な思いをしていることに驚いた。病棟にも対策を講じないと看護師の離職率が上がりそうだ。後で最愛の人の耳に入れようと心にメモをした。
「まずは教授です。ただ、総回診の後ろのほうに並ぶのが慣習なので、目に入っていない可能性のほうが高いですけれども」
最愛の人はまるでビデオカメラのような記憶力だ。一目見ただけで全てが頭の中にインプットされる。だから広瀬看護師のことは覚えているはずで、単に彼が異性には惹かれないからだろう。
「総回診のときは患者さんに集中されていますからね」
無難に答えておいた。
「そして、田中先生も同じです。次は、昨夜病棟に入院された……あ、すみません、お名前を忘れてしまいました。救急救命室から運ばれた患者さんなので田中先生が主治医だったかと思います」
昨夜なら一人しかいない。
「有瀬さんですか?」
最愛の人と祐樹が広瀬さんを「そういう目」で見ていないのは簡単に説明がつく。しかし、有瀬氏の場合は?
―――――
もしお時間許せば、下のバナーを二つ、ぽちっとしていただけたら嬉しいです。
そのひと手間が、思っている以上に大きな力になります。
にほんブログ村
小説(BL)ランキング
PR ここから下は広告です
私が実際に使ってよかったものをピックアップしています


コメント