「気分は下剋上 月見2025」6

月見2025【完】
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This entry is part 6 of 25 in the series お月見 2025

 それでも祐樹や柏木先生が久米先生見捨てないのは愛嬌がある点と、そして何より外科医としての才能が素晴らしいからだ。
「美味しい食事と、世界で最も美味なコーヒーありがとうございました。温泉も楽しみです」
 ごちそうさまと言った後で言葉を加えると最愛の人の笑みはミルクの上に紅い薔薇の花びらを落としたような風情だった。
「午後の手術の第一助手は久米先生でしたよね。それが済んで医局に戻ってきたら彼にこの封筒を渡しますね。アッシュベリー先生が来日するという嘘を尤もらしく話さないとなりませんし」
 祐樹は今日の執刀はない。国際公開手術を成功させた後にもまだまだ彼に学ぶことがあると自覚したので出来るなら第一助手として手術室に入りたかった。しかし、「久米先生を国際公開手術の次の術者にしたい」という医局一同の悲願がある以上祐樹は引かざるを得ないという悲しい現実がある。何かと張り合っている東京大学付属病院からは国際公開手術の術者が出ていないため、斎藤病院長はここぞとばかりに心臓外科の快挙として最愛の人のベルリン、そして祐樹のオックスフォードの成功を誇らしげに語っているらしい。その次は是非とも久米先生が指名されるように取り計らえと無理難題を最愛の人に押し付けてきたとも聞いている。
 アッシュベリー先生のことはオックスフォード大学での国際公開手術の祐樹のリカバリー医として医局では周知なので、久米先生が予約した旅館を譲る相手としては相応しいだろう。
「ごちそうさま。久米先生に上手く……いや私などよりも祐樹のほうが説得力のあるだろうな。とにかくよろしく頼む」
 最愛の人が軽く頭を下げた。職場では前髪を後ろに流しているので秀でた白い額がとても綺麗だった。
「こちらこそ、ごちそうさまでした。貴方の手料理の次に美味しかったです。ではまた」
 重厚なドアを開けて廊下に出た。執刀予定はなくともすべきことはたくさんある。とはいえ、心臓バイパス術を受けに来ている患者さんは、病室のベッドにいる。その点、交通事故に遭って救急救命室で複雑骨折以外に命に関わる外傷はないと判断し整形外科病棟に回した患者さんのように、暇にあかせて壁という壁に本棚があり、百巻を超える漫画がずらりと並ぶ喫茶店に行ったりパチンコ屋に入り浸ったりしない分楽だと思おう。それでも仕事は山のようにある。
 祐樹が時間に追われて大雑把に書いた電子カルテが事務局長から「こんな内容ではレセプトが通らない。つまり保険請求が不可能なのです!病院の収益を減らすつもりですか」という添え書きがついて戻ってきていた。祐樹としては手術の記録さえ残れば充分だと思っているが、事務局長は診療明細のほうが重要らしい。あの「経費削減」という言葉を念仏のように唱えている事務局長には医療現場の苦労などよりも数字が合っているかのほうが重要なのだろう。ボールペンの替え芯をもらいに行ったら「空になった物と交換です」と言われたなと思い、いや呪いながら作業を続けた。
 そろそろ午後の手術が終わる頃だろうと思っていると医局前がにぎやかになった。手術スタッフの柏木先生や久米先生が戻ってきた。その様子はまるで凱旋した兵士のように輝いていて、外科医の本領はやはり手術だとしみじみ思ってしまった。
「久米先生、少しお話があるのですが」
 これ幸いと立ち上がって久米先生へと近づいた。
「え?オレ、いや僕また何かしましたか?」
 久米先生は、怯えたカバといった感じだった。
「いえ、そうではなくて、予約した温泉旅館が駄目になりましたよね?」
 久米先生はホッとしたような、それでいて川に落ちた犬のような表情を浮かべている。
「教授からメールが届いたのです。私が術者を務めた国際公開手術でリカバリー医のアッシュベリー医師のお名前くらいは知っていますよね」
 久米先生はぶんぶんと首を縦に振っている。
「親日家としても有名で、教授に『日本の秋を楽しみたいのでいい温泉を知らないか?』というメールが届いたらしいのです。それで勝手ながら久米先生が予約した旅館が空いていると教授に申し上げましたら、チケットを譲って欲しいと。ちなみに教授はアッシュベリー先生とも親しいので、京都を案内されるらしいです。で、これを久米先生に渡して欲しいと預かったのです」
 祐樹のポケットですっかりよれてしまった封筒を渡した。もちろん中身は一万円札だ。
「え?わ!一万円札がこんなに……?いいんですか?」
 久米先生はカバがタップダンスを踊っているような動作になっていて、医局中の医師や看護師が目を丸くしたり笑いをこらえたりしている。
「アッシュベリー先生はホテルレジデンスに住んでいらっしゃるとロンドンで聞きました。だから我々とは金銭感覚が全く異なるのでしょう」
 久米先生は夢見る乙女のように頬を染めてキリスト教式の祈りのポーズをしている。
「こ、国際公開手術に成功したら、そんな暮らしが出来るんですか!?」
 どうやら目の前の祐樹も成功術者だとは頭から抜けているらしい。さっきまでレセプトに必要な数字をちまちまと入力していたというのに……。

―――――

いつも読みに来てくださってありがとうございます。お気づきの読者様もいらっしゃるかもしれませんが、私生活が多忙でしばらくブログをお休みしていました。その影響で、作中の時間とリアルの日にちがずれてしまっています。「もう栗拾い出来ないんじゃない?」とツッコミをいただくかもしれませんが、そこは作中の時間としてスルーしていただければ幸いです。

    こうやまみか拝

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