滅多に見せない柏木先生の真剣な顔は心なしか男前に見えた。
「もちろんです」
柏木先生は医局の秩序を重んじる人なのでまずは黒木准教授に報連相をするつもりなのだろう。
「今の時間は確か……」
柏木先生がパソコンの共用ファイルを開いていた。
「やはり、あいにく准教授会に出席中で、終了するのは約三十分後だな。それが終わったら准教授室に戻るだろう」
祐樹は教授会のほうが馴染みのある催し物だ。最愛の人が病院長主催の二次会を避けるために祐樹が外から電話して、「患者さんの容態が急変しました」と噓八百の報告をし、斎藤病院長の馴染みの「一力」を抜けた彼と一緒に鴨川の河川敷を散策したことも多々ある。ちなみに四条大橋から離れるほどカップルの親密度は高いと言われていて、二人もずいぶん遠くまで歩いた。その途中で男女のあられもない声や気配を察知して彼が夜目にも紅く頬を染めるのを見るのも楽しみの一つだった。
それはともかく准教授会というのは二次会もなく病院内の会議室で行われるらしい。
「一応、詳しい経緯を纏めます。兵頭さんのウツが、手術に影響を及ぼすなら黒木准教授だけでなく香川教授まで影響しますので」
柏木先生が頷くのを確認し、祐樹のデスクに座ってパソコンを操作した。文書が完成したのでプリントアウトの指示を出し、プリンターに歩み寄っていると医局のドアが開いて広瀬看護師が入ってきた。デスクに突っ伏して仮眠を取っていた久米先生もむくりと顔を上げている。ぷっくりとした頬にボールペンの跡がくっきりとついているのが笑える。医局で仮眠をするというのは何事にも杓子定規で判断する事務局長なら激怒するだろうが、いわゆるオフィスタイムは医局勤務、夜は救急救命室に助っ人に行くというハードなスケジュールをこなす医師は黙認されている。祐樹は医局でこそ仮眠は取らないが、最愛の人しか知らない隠れ場所でうたた寝することはあった。
そんなことを思いながら何となく久米先生の視線を追うと、広瀬看護師の見事に盛り上がったバストに釘付けになっている。しかも、先ほどまで仮眠していたとは思えない邪まな光が宿っている。ちょうど近くに置いてあったコピー用紙を数枚まとめて丸めながら足早に久米先生に近づき、パシンと音を立てて頭を叩いた。
「痛っ!田中先生僕は何にもしていないのに、ひどいです!」
医局にいた医師達は「またか」という温かい笑みを浮かべている。
「確かに何もしていらっしゃいません。しかし、どこをご覧になっていましたか?」
祐樹の言葉が敬語になったせいで久米先生が窮鼠のようにプルプルと震えている。
「……え?あ、あの……ドアを見ていました」
祐樹の次にプリンターを使おうとしていた遠藤先生が眼鏡のブリッジに手を当てて口を開いた。
「ドアではなくて広瀬看護師を見ていたでしょう?それも痴漢のような眼差しで」
気付いたのは祐樹だけかと思っていたらカタブツで有名な遠藤先生も見ていたらしい。
「え!?あ!はい。すみません。つい出来心です。田中先生もどうせ叩くならハリセンなら痛くないのに……」
おどおどと退路を探しているネズミのようだったのに、窮鼠猫を噛むという言葉通りに反論してきた。ハリセンとはきっと漫才コンビが使っている大きな扇子のような物だろう。久米先生は大阪の進学校に六年間通っていた過去があるので吉本興業は馴染み深いのかもしれない。
「そういう問題ではありません。されたほうが不快だと感じればセクハラですよ」
広瀬看護師は黒く大きな瞳を見開いて立っていた。
「田中先生、ありがとうございます。こういった視線は慣れているんですが、やはり嫌な気持ちになります。私のような新米の看護師は先生に強くは言えないので……」
頭を深々と下げている。看護師らしく短く切った黒い髪もつやつやと揺れている。確かに男性の目を強く惹く女性だなと祐樹でさえ思った。
「広瀬看護師が嫌だと言っていますよね。今後このようなことがあったら、教授に報告してしかるべく判断を仰ぎます。香川外科からセクハラ・パワハラの被害が出ないように皆さんも注意してください」
こういうことを言うので、祐樹は陰で「香川外科の小姑」と悪口を言われているのは知っていたが、医局の自浄作用は必要だと信じている。それに広瀬看護師がセクシャルハラスメント委員会に申し出れば病院内の顰蹙を買うのは医局の責任者の祐樹最愛の人だ。
「アメリカでは裁判で和解しても、被害者に支払う慰謝料は一般的に数万ドルですよ」
留学経験のある遠藤先生が助け舟を出してくれた。
「ざっと計算したら百五十万円以上になりますか。そんな大金、久米先生に支払えるのですか?」
ボールペンの跡が赤くついている頬をぶんぶんと振っている。
「だったら、以後は気をつけてください。広瀬さんも医局で嫌な目に遭ったら私に言ってください。対応しますので」
彼女は深々と頭を下げた後に、気を取り直したように柏木先生のデスクに近づいていった。彼女が医局に来たのは柏木先生に報告することがあったのだろう。
「あの、田中先生、まことに申し訳ありません。以後気をつけますので」
久米先生は項垂れたカバといった感じで謝っている。
「今度は私もパワハラにならないようにハリセンを用意しておきます……と言いたいですが、今後はないと思っていてください」
プリントアウトした書類を持ってデスクに戻り誤字脱字がないかチェックしながらパソコンの共有ファイルを見、肩を落としてしまった。
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