「気分は下剋上 月見2025」5

月見2025【完】
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This entry is part 5 of 25 in the series お月見 2025

「この旅館か。雑誌に『中秋の名月に行きたい旅館 トップ5』としてランクインしていたな」
 最愛の人はビジネスパーソン向きの経済雑誌を読んでいるのは知っていた。おそらくその雑誌に載っていたのだろう。
「そうなのですか?具体的にどんな部屋なのでしょう?」
 久米先生は経済誌の類いは読んでいない。どちらかといえばアニメやゲームの雑誌を救急救命室の休憩室でトドのように横たわってポテチを食べ、めくっている姿を多々目撃している。どんなルートでエリートビジネスマンが行きたがる旅館の情報を入手したのか不思議に思ったが、突っ込んで聞くまでの価値は見いだせなかった。
「露天風呂に浸かりながら満月を見、見事な岩の間からはススキや紅葉を楽しむという趣向だそうだ。それにこの日は中秋の名月だろう。よく部屋が取れたな」
 最愛の人も柚子のシャーベットをスプーンで掬って口に入れた。
「その露天風呂は共用ですか?それとも部屋についているのですか?」
 俄然興味がわいてきた。
「久米先生の手配した部屋は専用の露天風呂のある部屋のようだな。私としては、外科医学会をキャンセルしてこの旅館に行くことを奨励出来ない。しかし、この旅館は一度キャンセルしたらお断りされる殿様商売で成り立っていると書いてあった。今はインバウンドのせいで安い宿や民泊に外国人が泊まって盛況のようだが、昔ながらの旅館は苦戦している。それにもかかわらず、そうしたある意味、高飛車な商売が成り立つのはサービスや料理、そして旅館の施設に自信があるのだろう。祐樹、久米先生からこのチケットを二倍で買うので一緒に行かないか?」
 最愛の人の笑みは春の日に舞う桜の花びらのように綺麗だった。
「いいですね。貴方と二人で露天風呂。是非ご一緒します」
 最愛の人は薄紅色の薔薇の笑みも霞むような表情に変わった。
「決まりだな。それにしてもこの柚子のシャーベットには柚子の皮を甘く煮、そして細く切ってシャーベットに混ぜてある。その絶妙な味がとても美味しい。祐樹も柚子は好きだろう?」
 最愛の人の言うとおり細かく切った柚子を口の中で選り分けて皮だけを歯で噛んで食べていた。柚子の爽やかさと甘すぎない酸っぱさが先ほど食べたステーキの油分を吹き飛ばしてくれるようだった。
「この柚子もクセになる味ですね。……露天風呂、とても楽しみです」
 向かいに座る彼に笑いかけると彼も涼やかで情熱的な眼差しを向けてきた。それだけで午前の仕事の疲れが吹っ飛ぶような気がした。
「まだ時間があるのでコーヒーを淹れるな」
 フォークとナイフを置くと、最愛の人は純白の白衣を天使の翼のように翻して立ち上がった。そして執務用のデスクを経由してコーヒーメーカーへと歩んでいた。ほどなくコーヒーの香りが執務室の空気をより清浄な雰囲気に染めるように漂ってきた。
「祐樹、久米先生に……、そうだな、アッシュベリー先生が『日本の代表的な温泉に入りたい』とでも言ったので、この温泉の権利を譲って欲しいとでも言ってくれれば嬉しい」
 祐樹がポケットに入れていたせいでよれてしまったチケット入れに一万円札がざっと十枚以上入っている。
「こんなにですか?」
 先ほど旅館の値段をチラッと見たがその二倍のお金は入っているだろう。
「雑誌によるとこの宿は予約が取れないことで有名なのだ。だから、その手間賃も含んでいる」
 なるほどと思った。久米先生は「脱☆DT」とやらに執念を燃やしているし当然リスケを考えているだろう。……岡田看護師に自分のパンツを穿かせようとしたことは最愛の人には黙っておこう。彼もさほど女性用の下着のことは知らないので、可笑しさは伝わらないだろうし、ある意味下世話な話題を彼の耳には入れたくない。
 救急救命室の休憩室はプライバシーの概念がない場所だ。そして、例年の暑さで熱中症のリスクが声高に叫ばれているにもかかわらず「経費節減」と呪文のように唱えている事務局長のせいでクーラーは最低限しか使えない。久米先生は男子校育ちだからか看護師が入って来ないのをいいことにパンツだけ穿いて寝そべっていることもある。だから祐樹は知りたくもないのに、久米先生がお母さんの買ってきたと思しきトランクスを穿いていることまで把握している。今回、岡田看護師と一緒に温泉に行くという一方的な計画が、「若手の外科医の会」とブッキングしたのは、ある意味僥倖だろう。久米先生の温泉リベンジの前には柏木先生と二人で「女性を旅行に連れて行くときに注意すべきこと」のレクチャーをしなければならない。「アクアマリン姫」という祐樹のつけたあだ名がぴったりの清楚な美人、岡田看護師は引く手あまただろうが、久米先生の場合、彼女を逃がしたらあとがないような気がする。久米先生は最愛の人が出したお金のうち半分は宿代に使って、その残りはフィギュアを購入しそうだ。きちんとプレゼントを買うように言っておこうと密かに決意した。何しろ久米先生は「綺麗だから」と菊の花束を贈ろうとしたり翡翠の指輪を選んで買いそうになったりした前科を持っている。

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