「有瀬さん、お加減いかがですか?」
夏輝の父・有瀬誠一郎氏の主治医として病室のドアを形ばかりノックしてスライドさせた。ベッドに半身を起こしていた有瀬氏は祐樹をちらっと見た後、ドアの向こうに誰かがいるように視線をさまよわせている。
「お陰様で胸も苦しくないです。それに、ここにいると、会社で倒れたときのようにろくな手当も受けられず、救急車を待つだけという事態にならないという安心感で、ストレスがないのも助かります」
言葉遣いは丁寧だし、祐樹の問いには答えている誠一郎氏だが、視線はドアの辺りに固定しているのが気になった。話す時には相手の目を見てというのが社会人のマナーだ。全国で二十一店舗の美容院を経営し、最愛の人によると経営状態は良好な会社の社長が、そんな初歩的なマナーをわきまえていないとは思えない。何か訳でもあるのだろうかという疑問が頭をかすめた。
「ストレスも血管を狭めます。ですからこの病院で大船に乗った気でいてください。そして、なるべく楽しいことを考えたほうがいいですよ」
枕もとに設置されている機器の数字を素早くチェックし暗記した。昨夜救急救命室に搬送されてきたときよりははるかにいい数字だ。
「心筋梗塞は時間との勝負らしいですね」
有瀬氏は何だか試すような眼差しを祐樹に向けている。
「そうです。AEDや心肺蘇生術をせずに心臓に血液が行きわたらない状態だと数分から十分程度で命を落とす危険が極めて高いです。有瀬さんの場合は同席してらっしゃった常務の方がすぐに救急車を呼び、車内での蘇生術が上手くいったのでしょう」
祐樹も手を尽くしたが、それは言わぬが花のように思えた。
「そう考えれば、愚息の夏輝はよく思い切って四条大宮駅に設置してあったAEDを使う決意を固めたのですね。親としては誇らしいです」
夏輝を褒めているのだろうが、一点だけ気になった。祐樹が考えた「設定」では四条大宮ではなく、四条河原町の駅で中年男性にAEDを使っていた。そして、たまたま通りかかった最愛の人と祐樹がその後の看護にあたったことになっている。
「夏輝さんが勇気を出してAEDを使用したのは四条大宮駅ではなく、四条河原町駅ですよ」
単なるうっかりミスだろうか?有瀬氏の社会的地位から考えるとどこに行くにも車を使って移動してもおかしくない。それに夏輝の母の香織さんだって四国、いや九州かも知れないが、とにかく地方で大事な商談をしていて明日にしか京都に帰れないと聞いている。つまりは京都の地場産業ではないので大宮駅と河原町駅を混同している可能性はある。
「ああ、そうでした。うっかり間違ってしまいました」
有瀬氏は大きな笑い声を立てていたが、目は笑っていなかった。
「駅で倒れている人がいた場合、スマホで救急車を呼ぶか駅員さんに知らせる、または声をかけて持っていた水を渡す程度のことは医療従事者でない人も簡単に実行できるのですが、AEDを使うのは心理的なハードルが高いという厚労省のデータがあります。夏輝さんは、そのハードルをやすやすと超えたのは立派だと思いますよ」
夏輝がAEDを使ったというのは真っ赤な嘘だ。美容師専門学校生の夏輝と、最愛の人や祐樹の接点がないために無理やりに考え出した。実際はゲイバー「グレイス」で知り合ったが、夏輝も誠一郎氏にゲイバー通いは言っていないし、祐樹達も出来れば隠したい情報だったのでそういうことにしてある。
「そうですね。普段は何を考えているか分からない愚息ですが、人命がかかっている事態に直面して必死だったのでしょうか。親としては誇らしいです」
言葉としては平均的な用語を使っているけれども何だか台本をそのまま読んでいるような感じだった。何だろうか、この違和感は、と思っていると、有瀬氏の視線が和らいだ光を放った。院内規則では、医師を含む医療従事者が患者さんと二人きりになるときは、ドアを開けておくことになっている。祐樹も有瀬氏の視線の先を追った。その先には珍しく白衣をきちんと着た柏木先生が立っているのを確認して視線を転じると有瀬氏は目を伏せていた。どこか落胆した感じなのも不可解だ。
「少し失礼します」
会釈してベッドサイドから足早に離れ入り口へと向かった。柏木先生がこの病室に来たということは祐樹に用があるのだろう。この病室は今のところ有瀬氏しか使っていないし、柏木先生は有瀬氏の主治医でもないため用事はないはずだ。
「田中先生、兵藤さんの様子がおかしいので、有瀬さんの用が済んだら向かってくれるか?かなりウツっぽいと三好看護師が医局に言ってきた」
最愛の人は手術成功率100%を誇っているが、場所が心臓ということや、手術自体を怖がる患者さんは一定数いる。手術前のストレスからウツっぽくなる患者さんも多数診てきた。
「分かりました。有瀬さんのバイタルは記憶しましたので、すぐに向かいます」
小声で話した後に有瀬さんのベッドに近づいた。
「何か御用がありましたら、ナースコールを押してください。お大事に。また参りますね」
有瀬氏の返事はなかった。夏輝は父親の誠一郎氏が病気らしい病気をしたことがないと言っていた。そんな人がいきなり心筋梗塞だと告げられ手術を待つ身になったら普段の精神状態ではなくなるだろう。そのせいかもしれないなと思いながら廊下を早足で歩いた。
―――――
もしお時間許せば、下のバナーを二つ、ぽちっとしていただけたら嬉しいです。
そのひと手間が、思っている以上に大きな力になります。
にほんブログ村
小説(BL)ランキング
PR ここから下は広告です
私が実際に使ってよかったものをピックアップしています


コメント