無邪気な弾んだ声が車内を春色に染めていくようだった。几帳面な彼が珍しくキッチンのテーブルに置きっぱなしにしていた「遠足のお菓子リスト」は、祐樹に見せるためではないのだろう。
あの夜キッチンに足を運んだのは急に喉が渇いたからだった。祐樹が救急救命室から午前三時頃に帰宅するのは習慣になっていた。彼もその時間に自然に目が覚めると言っていたが、シャワーは救急救命室で浴びて帰宅する。マンションですることといえばうがいと手洗いと歯磨きくらいでキッチンに入るのはレアケースだ。祐樹が目を通した後もテーブルに元通り置いたので多分気が付いていないだろう。
最愛の人が祐樹に食べて欲しいと思ってわざわざ紙に書いた「カリカリ梅」を選ぶのが妥当だ。
「『カリカリ梅』にします」
最愛の人はミルクに紅色の薔薇の花びらを浮かべたような綺麗な笑みを浮かべて梅の実一個分が入ったパッケージを開けている。その手つきも弾むような色香を放っている。
「名前の通りカリッとしていて美味しいですね。貴方が作って下さる梅干しも、梅の美味しさと塩味が絶妙のバランスで絡み合ってご飯が進むと一部では評判なのですよ。ご存知でしたか?」
助手席で美味しそうに午後の紅茶 ミルクティーを飲んでいた彼が祐樹の横顔を驚いたように見ている。
「どこでそんな評判になっているのだ?」
やはり知らされていなかったらしい。
「実はこれから行く山は八木さんが先祖代々持っていた山なのです。知らない人の持っている山で勝手に栗や、あわよくば松茸を持って帰るのはまずいですよね。呉先生もずっとあの薔薇屋敷に住んでいるので、京都の地主さんの知り合いがいるだろうと相談してみたのです。そうしたらお隣の八木さんが山を持っているし、森技官とは盆栽友達なので頼みやすいということになりまして」
最愛の人は切れ長の目を見開いて祐樹を見ている。
「八木さんの家も立派だったな。農業を営んでいるようには見えなかったが、山を持っているのか……。戦後の農地改革で田んぼや畑は実際に収穫をしている人の物になったが、山は対象外だったので、ずっと持ち続けているのだろう。そうか、八木さんが所有している山に行くのか。てっきり目についた山に入るものだと思っていた。祐樹もそれらしいことを言っていたし」
祐樹としては最愛の人に小さなサプライズを送りたかったこともあって敢えてぼやかしていたのが奏功してほんの少し嬉しかった。
「貴方を驚かせようと思いまして。伏せていました。八木さんは呉先生から貴方の作った梅干しを分けて貰っていたらしいです。スーパーで買う梅干しとは全然違うとお気に入りのようでしたよ。それに干し柿も大好物らしくて、森技官と縁側でお茶を飲みながら盆栽を眺めつつ食べるのがお気に入りだそうです」
八木さんはともかく森技官が縁側で日本茶を嗜んでいる図というのは可笑しい。まさか「男の戦闘服」と主張している黒いアルマーニを着こんではいないだろうが、万が一着用に及び、そのままお茶と干し柿を食べている図というのがあればこっそりと様子を見に行きたいとすら思った。当然森技官に気付かれないよう見、出来ればスマホで撮影したい。その画像があれば、心肺停止で搬送された患者さんの命が祐樹の手のひらから零れ落ちてしまったときには、最愛の人以外誰にも知らせていない隠れ場所に行き、缶コーヒーとタバコを嗜みながら、その画像はいい気分転換になりそうだ。最愛の人の笑顔の画像も当然そういう時の心の清涼剤の役割を果たしてくれるが、森技官の縁側で干し柿を食べている図というのは笑いまで惹起してくれそうだ。
「森技官が八木さんの家の縁側でお茶を飲みながら干し柿を食べている様子を、呉先生が撮影してくれないでしょうか?」
わざわざ八木さんの家と限定したのは、呉先生の家は祐樹が名付けた薔薇屋敷という名前がぴったりと合う、由緒ありげな洋館だからだ。明治か大正時代に呉先生の先祖が建てたと聞いている。そんな「ハイカラ」な建物に干し柿と日本茶は似合わない。祐樹が求めるのはあくまで森技官が彼らしくない干し柿を食べている図なのだから。
「呉先生に頼んでみる。それに、八木さんの山で栗を採ったなら、おすそ分けをしに行くのが筋だろう?日本全国を飛び回っている森技官が呉先生の家にいるかどうかまでは分からないが、八木さんの家に行ったら、呉先生の薔薇屋敷にも顔を出さなければならないな。……そう思うとカゴいっぱいの栗を持って帰らなければ、モンブランのクリームが作れない」
最愛の人の律儀さに惚れ直した。呉先生経由八木さんの許可を取ったのは祐樹だが、「あいにく思うように採れなかったです」と言えばいい程度にしか思っていなかった。八木さんも滅多に山に行かないと言っていたし、些細な嘘はバレないだろう。それよりも八木さんは他人の山に迷惑を掛けない限り好きにして良いと言ってくれていた。
「焼き栗を召し上がったことはありますか?」
最愛の人は急な雨に降られて戸惑う薄紅色の薔薇のような表情に変わった。
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