「田中です。お呼びにより参りました」
数えきれないほど来ている最愛の人の教授執務室のドアをノックした。教授執務階の廊下は絨毯もふかふかだったが、行きかう教授はともかく叱責のために呼び出された医師の顔は悲劇的な表情だった。祐樹の前を通り過ぎていく医師は「お互い怒りに耐えよう」といった共犯者みたいな眼差しを向けてくる。
医局内は内政不干渉が病院の不文律なので、たいていのことは教授が処理し、教授の手に負えない場合のみ斎藤病院長の出番だ。だから医局でミスをしてしまっても、たいていは医局内でことが収まる。万が一、医療過誤のせいで患者さんが死亡してしまった場合は斎藤病院長マターになるのは当たり前だが。
「どうぞ」
怜悧な声が扉越しに聞こえてきた。通りすがりの医師は何だか憐みめいた眼差しで祐樹を見ている。ミスをしでかして教授に怒られると思い込んでいるに違いない。誤解を解く暇があれば最愛の人の大輪の薔薇のような笑みを見たいと思い会釈にとどめた。
重厚な木のドアを閉めれば二人だけの世界だ。彼にも秘書はいるけれども、ランチタイムで室内にいないことも知っている。
「祐樹、今回は熱々のステーキ弁当だ」
応接用のテーブルの上には七輪みたいなものの中に炭火が燃えている。炭のいい香りとステーキの芳香が教授執務室を晴れやかに彩っている。視覚的にも嗅覚的にも。最愛の人が白衣の裾を鮮やかに翻して執務用のデスクから足早に近寄ってきた。その所作の美しさや涼しげな眼差しに魅せられてしまう。
「とても美味しそうですね。神戸牛でしょうか?それとも松阪牛……」
最愛の人と向かい合って座って応接用のテーブルに所せましと並べられた料理を見た。祐樹の視線に対する吸引力は最愛の人の顔のほうが断然高いが、差し入れてくださった関口さんに悪いので自粛した。
「神戸牛のステーキだとお品書きに書いてあったな。厚さもかなりあるのでもう少し火を通したほうがいいと思う」
美食家ではない二人だが、向かい合って食べるだけで食材の十倍は美味しくなる。ステーキに合わせたのか今日のランチは洋風らしい。ポタージュスープがほかほかと湯気を立てていて、その向こう側に最愛の人がいると思うだけで心は幸せ色に満たされるような気がした。
「いただきます」
声をかけてからナイフとフォークを手に取った。最愛の人はステーキが載っているステンレスの大皿を七輪みたいな物から的確かつ精緻な指の動きで取り外している。その後、彼もスプーンでスープを掬っている。
「このポタージュスープも美味しいですが、コクが足らないような気がします。貴方の作って下さるスープに勝るスープを飲んだことはないですけど」
正直な感想を述べると彼は満開の薄紅色の薔薇のような笑みを浮かべている。
「そうか?それは嬉しいな。ちなみに、コーンが粒のまま入っているスープと、完全に裏ごししたスープのどちらがより好みなのだ?」
ステーキを口に入れると口腔に肉汁がジュワっと広がってとても美味しい。
「貴方が作って下さるポタージュスープは、どちらも好きですね。強いて言えばシチューかと思えるコクのあるスープのほうでしょうか?あ!このステーキの美味しさでついつい忘れてしまっていましたが、久米先生が『将来を嘱望された若い外科医の会』に呼ばれたそうで、医局としては名誉なことですね」
最愛の人もほんのりと紅い花のような笑みを浮かべている。多分、ポタージュスープのより一層の工夫と久米先生の件の両方を考えているのだろう。
「そうだな。ただ、久米先生のポテンシャルは祐樹も認めていただろう?しかし、実践が足りないのが痛いのも事実だ」
フォークを器用に操る手を止めた最愛の人は細い頤に形のいい指を当てている。香川外科の手術室の割り当ては一日二件で、患者さんのたっての頼みで執刀は最愛の人が行っている。祐樹も国際公開手術の成功術者という実績が徐々に広まって指名も格段に増えたのが嬉しい悩みだ。
最愛の人が被害に遭った脳外科の狂気の研修医が起こした「夏の事件」の貸しがあるので脳外科の白河教授が手術室を譲ってくれることもあったのは有難いけれども、最近は外科的なアプローチが不可能とされていた重度の悪性脳腫瘍の画期的な術式を確立し、その手術待ちの患者さんが全国から押し寄せてきていると聞いている。もともと脳外科の厚意で貸してもらっていたために文句は言えない。
「そうだな。このポテトは塩と胡椒が絶妙なバランスだ。そして表面はカリカリで中はホクホク……。こういうふうに揚げるコツは何だろうか?」
最愛の人の薄紅色の唇にポテトの油分がついて、まるで咲きたての桜のようだった。
「救急救命室の凪の時間にコンビニに行くこともあるのですが、コロッケなどは専用の機械で揚げています。そういう特殊なものがないとこんなに素晴らしく焼くことが出来ないのではないでしょうか?」
最愛の人は納得したような表情を浮かべている。
「それはフライヤーという機械だろう?確かに家庭用の揚げ物では太刀打ちできないな。それはそうと、久米先生の件だった……」
その怜悧な口調に背筋が伸びる気がした。
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