そろそろ最愛の人の手術が終わった頃だなと時計を見た。一昔前、患者さんは言いたいことがあると看護師に話したらしいが、今は医師に直接言ってくるようになったので、切り上げ時が難しい。しかも、医師への不満があると不定愁訴外来に行って呉先生に相談する流れになっている。呉先生が「このケースは医師が悪い」と判断した場合は表にして病院長に提出する密命を帯びているのは知っていた。
斎藤病院長は呉先生が優秀な精神科医だと認め、教授と大喧嘩した呉先生を例外的に大学病院に留め置いたのも事実だろうが、不定愁訴外来という入院患者さんの愚痴やクレームを延々と聞く外来から医師や病院の不満を吸い上げる目的があったのだろう。
呉先生とは仲の良い友達だが、もし香川外科の入院患者が医師の不手際があったら病院長に報告するだろう。公私混同は組織を腐らせるし、最愛の人がなによりも嫌う隠蔽体質の出発点だ。だから現場の医師の一人として、患者さんの訴えに耳を傾ける必要があると考えている。
白衣のポケットに忍ばせていたスマホの通知音が鳴った。この時間だと、もしかすると最愛の人からのLINEかもしれないとトイレに入って表示を見た。
「関口さんから差し入れのお弁当が届いた。良かったら一緒に食べないか?」
いつ見ても嬉しいお誘いに唇が綻んだ。
「分かりました。用事が済んだらすぐにに参ります」
返信を打って患者さんからヒアリングしたことをカルテに記入していると、久米先生が未練たっぷりといった感じで旅行会社からのチケットを見ている。
「お気の毒ですね。ただ、外科医は呼ばれるウチが花なのですよ。特に主催者が『この医師が旬』だと判断するのは貴重なのです」
久米先生は屠所に引かれる哀れな子牛といった絶望的な表情を浮かべている。多分岡田看護師の考えなどは無視して、「☆脱・DT☆」とでも妄想していたのだろう。ちなみにこれは凪の時間に久米先生が読んでいた雑誌に書いてあった「性体験を目指す!」というキャッチコピー的なものだ。
「そうですね。お呼びがかかったのは光栄だと思っています。しかし、なんで同じ日なのですか?神様が岡田看護師のことは諦めて外科医として生きろと言っているような気がします!!」
……それは被害妄想が過ぎるのではないだろうか?
「いや、温泉宿は逃げませんし、別の日にリスケをしたらいいだけのような気がします」
久米先生は何だか狂気を感じる据わった目で祐樹を見上げている。
「この宿のこの部屋は、一度キャンセルしたら二度と取れないといういわくつきの宿なんですよ!!ああ!もっと早く仕事が入ると知っていたなら!!ものすごく風情のある露天風呂に、満月が綺麗に見えて最高の宿だったのに!!ほら今の季節満月が綺麗ですよね?それを見ながらアクアマリン姫の『うふふ』な姿……!あ!鼻血が……」
多分岡田看護師のヌードでも想像したのか本当に鼻から血が出ている。祐樹はちょうど傍に置いてあったティッシュを取って鼻に詰めた。
「露天風呂でお月見が出来るのですか?ちなみに久米先生が宿を取って、別人がチェックインした場合、久米先生はリベンジが認められるのでしょうか?」
もしそうならば、最愛の人と露天風呂でしっぽりと月見酒を嗜みつつゆっくりとした優雅な時間を過ごせそうだ。
「要するに宿の部屋が埋まればいいみたいですね。オレじゃなくても。ほら、今はインバウンドで外国人観光客がたくさん来ているじゃないですか。でも、高級旅館はガラガラらしくて、経営が大変らしいんですよ」
普段はイジられても笑みを絶やさない久米先生が、今は地獄にでもいるような顔色だった。それに普段は甲高い声も地を這うような、いや呪詛でもしそうな感じだ。一度のキャンセルで出禁になる旅館なら、ものすごく敷居が高そうなのに経営がうまくいっていないというのは、矛盾しているような気がするがスルーしよう。
「だからアクアマリン姫に内緒で予約して『どうですか?オレだってやる時にはやる男だ』って認めてもらいたかったのに……」
……いや、その前に「温泉に一緒に行きます?」と聞いてみろと言いたいが、珍しく傷心のせいで丸っこい背中をさらに曲げている久米先生が気の毒で口に出すことは自粛した。
「岡田看護師は普通のデートだと思って待ち合わせ場所に来るのですよね。下着などはどうするつもりだったのですか?」
好奇心に負けて聞いてみた。
「オレが余分に持っていくので替えはたくさんあります!!」
……アクアマリン姫ほどの妙齢の美女が、久米先生の下着を喜んで身につけるのだろうか?普通だったらそれだけでお別れコースだと思う。そう思えば外科医学会の仕事が入ったことはむしろラッキーだと思う。
久米先生は香川外科期待の新人だと自他ともに認めている医師だけに若手医師の祭典よりも、いきなり国際公開手術を狙っていたのだろう。つまり黒木准教授ほど名誉には思っていないらしく、ひたすらアクアマリン姫と行く温泉への未練がましい繰り言を呟いているのだろう。
「しかし、職務優先ですよね?このチケットは預かっても構わないでしょうか?」
日付を見ると土日だった。若手外科医の会とやらも病院が開いている日時は避けたらしい。
「はい……。今のオレには見るのも辛いんです。ああ!ゆりあちゃんのお宝フィギュアを四人も手放してやっと買えたというのに……」
久米先生の丸っこい指がしおしおと動いて旅行代理店の封筒を手渡した。「ゆりあ」というのは久米先生が最近ハマっているゲームのヒロインらしい。フィギュアは四「人」と数えるのだろうか?祐樹の常識では四体だと思うのだが、珍しく地の底まで落ちている久米先生に追い打ちをかけるのも忍びない。久米先生の愚痴に付き合いつつカルテの記入も終わったので最愛の人が待つ教授執務室にでも行こうと思ってチケットをポケットに入れた。
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