「気分は下剋上 ○○の秋」4

◯◯の秋 2025
This entry is part 4 of 4 in the series 「気分は下剋上 秋の愉しみ」2025

 確かにその若者は肉体労働者らしくしっかりとした筋肉がシャツを押し上げている。
「仕事の話になるのですね」
 最愛の人は、いきなり雲がかかって暗くなった地に咲く白薔薇のような表情を浮かべている。オフの日に仕事の話はなるべくしないのが二人の暗黙の了解だった。祐樹は肩を竦め、口を開いた。
「デートではないので、今はカウントしないことにしましょう。確かに向いてそうですが……。貴方が精神科の心配を?」
 祐樹が、茶化すように言うと彼は描いたように整った眉を寄せて薄紅色の唇を開いた。
「あの科は、教授がパワーハラスメントをしょっちゅう仕出かすので、離職率が高いのだ。その件では、病院長や事務局長も頭を抱えている。今は医師よりも看護師のほうが圧倒的に人手不足だからな。ウチの科は祐樹が彼女たちの不満を早い段階で察知してくれるだろう。だから辞めていく人が少ないのは本当に感謝している。辞めたのはご主人が東京の本社勤務になり引っ越すことになった川島さんくらいだろう?」
 実際に看護師不足が深刻な問題なのは確かなのは、祐樹も知っている。香川外科は「田中先生に相談して、深刻な話だったら、絶対に教授が聞いてくれる」というのが看護師たちの共通認識だ。祐樹もさり気なく看護師の表情とか全体の雰囲気に注意を払っている。ちなみに、祐樹が派遣されている救急救命室は、杉田師長というカリスマがいるせいで意外と辞めない。杉田師長は叱るときは物凄い迫力だが、必ず明確な理由がある。そして同じミスをした場合は医師だろうと看護師だろうと同じ勢いで怒鳴られる。しかし、いい仕事をすればさらりと褒めてくれて「私のことちゃんと見てくれている」という安心感から忠誠心に変わる看護師が圧倒的に多い。
「パワハラ気質だというのは呉先生の同僚の梶原先生からも聞きました。気分で怒るようなタイプですよね。しかも、壊れた瞬間湯沸かし器のように、いつ沸騰するのか誰も分からないという話でした。病院長に問題視されるのはまだ分かるのですが、『あの』事務局長の頭痛のタネというのは、少し痛快です」
 現場の声を完全に無視した経費削減策を押し付けてくるせいで、事務局長を嫌っている医師は数多い。祐樹もその一人で、事務局長には散々無理難題を押し付けられてきた。だから心の隅では「ざまあみろ」という気持ちが芽生えた。
「オヤジさん、また寄る!」
 若者が雑多なものを買い、それをまとめた大きな袋を持って店を出て行った。
「安全に気をつけて」
 オヤジさんと呼ばれる老人はもしかしたら元建築業で働いていて、定年退職の後の隠居仕事としてこの店を経営しているのかもしれない。
「新人とベテランは当然ながらタスク処理量が異なるだろう。習熟度の高いベテランが辞めて、右も左も分からない新人が入ってきたら戦力差は歴然だ。それに、勤続年数に応じた退職金を支払わなければならないだろう?それも惜しんでいるらしい。あ!祐樹、この作業着にはポケットが山のようにあって、両手があくようになっている!ああ、現場では物を持ったまま作業が出来ないから当然か」
 実用一点張りと言う感じの作業着に目を丸くしている顔も紅色の無邪気な笑みに溢れている。この店に来て良かったと思った。
「試着してみますか?」
 決して広くない店内を彼は怪訝そうに見回している。
「……祐樹、試着室はどこにあるのだろう?」
 小さな声で聞かれた。セルフレジに驚いて、それからすっかり気に入っている「GU」にさえ試着室はあったのだからこの店にもあるのだろうと自然に考えたに違いない。
「先ほどの若者のようにパッと入ってさっと買うのがこの店の普通の客だと思います。それに、全身のコーデネートを細かくチェックするような人はきっといません。おそらく試着室はないのではないでしょうか?」
 最愛の人は切れ長の目を満月のように見開いている。
「だったら、どこで着てみるのだ?」
 祐樹は念のため店内を見渡して試着室らしいカーテンがないことを確かめた。
「その場で試着しろということなのではないでしょうか?さっきの若者もベストを羽織っていましたから」
 頷いた最愛の人は作業着を試着している。店番をしているご老人は若者が出て行った後も、老眼鏡をかけてスポーツ新聞に目を落としている。常連客には親しげに声をかけ、一見の客には距離を置こうとしているのか、一目で最愛の人や祐樹の日に焼けていなさや会話を聞いて異業種だと見抜いたのかもしれない。
「わ!このポケットにはスマートフォンがちょうどいい感じで入る。――そして、このポケットにはアポロチョコの箱が五つは入るな。そして、こちらはラムネの瓶が三個入る……」
 作業着の一つ一つのポケットを入念に確かめている弾んだ指先を見ていると祐樹も心の弾みを感じた。
「そこまで考えますか……?」
 祐樹は、デートのときに最愛の人が遠足で小学生が持っていきそうなお菓子に弱いのも知っていた。ちなみにラムネは飲み物のほうではなく、プラスチックの瓶に入ったお菓子だ。作業着姿の彼は正直似合っているとは言い難いが、新鮮さという点では断トツだった。

―――――

もしお時間許せば、下のバナーを二つ、ぽちっとしていただけたら嬉しいです。
そのひと手間が、思っている以上に大きな力になります。

にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説へ
にほんブログ村

小説(BL)ランキング
小説(BL)ランキング

PVアクセスランキング にほんブログ村

PR ここから下は広告です

私が実際に使ってよかったものをピックアップしています

Series Navigation<< 「気分は下剋上 ○○の秋」3

コメント

タイトルとURLをコピーしました