「気分は下剋上 知らぬふりの距離」34

「気分は下剋上 知らぬふりの距離]
This entry is part 52 of 64 in the series 知らぬふりの距離

 夏輝は、一瞬黙った後に首を振った。
「ベッドに入ると嫌なことばかり浮かんできて……。父さん……いや、父ですね。父はいつまでも元気で仕事をしていると漠然と思ってました。倒れるなんて想像もしていなかったんです。だから……」
 その気持ちはよく分かる。
「不定愁訴外来の呉先生は、私の知る限り最も優れた精神科医です。その気持ちも含めて相談なさったらどうでしょう?」
 夏輝の表情がパッと明るくなった。
「そうですね。……あ!何だか博物館のような建物ですね。見ていても風情があるというか……」
 夏輝は愛らしい目を丸くして旧館の建物を見上げている。
「こちらは明治時代に建てられた建物です。元帝国大学の病院に相応しく壮麗な感じで建てられていますね。ただ、最新の医療器具などを搬入出来ないですし、ご覧の通り車いすの患者さん用のスロープもないので不便と言えば不便なのです」
 夏輝はなるほどといった感じの笑みを浮かべて祐樹を見上げている。
「夜になると何だか幽霊が出そう……あ、すみません、失礼ですよね?」
 ひんやりした廊下を二人で歩むと夏輝が思いついたように言った。
「幽霊ですか……。出てもおかしくないですが、あいにく目撃情報はないですね。学校や病院などには怪談話が付き物なのですが」
 祐樹は、無神論者なので幽霊も信じていないが、確かにこの旧館には幽霊も住み着いていそうな雰囲気なのは否めない。とはいえ、この旧館を使っているのは不定愁訴外来だけで、他は倉庫と化している。呉先生も診察時間が終われば帰宅すると聞いているので幽霊がいても目撃されないような気がする。
 「不定愁訴外来」というプレートだけは新しいドアをノックした。
「はい、お入りください」
 呉先生の爽やかな声が聞こえてきた。ドアを開けると、コーヒーのいい香りが漂っている。
「初めまして。有瀬夏輝といいます。わぁ、こんなに綺麗な方がいらっしゃるんですね……」
 夏輝が素直な口調で呉先生を評している。
「初めまして。あなたが夏輝君ですか?不定愁訴外来の呉と言います。お話は香川教授から伺っていました。香川教授ともお会いになったんですよね?教授のほうがずっと綺麗だと思いますが……?」
 夏輝は十秒ほど考えていた様子だった。
「香川教授もとてもお綺麗ですけれど、先生のほうがゲイバー『グレイス』で声をかけられたり奢ってもらえたりしそうな感じです」
 ……要するに庶民的な美しさということだろう。確かに最愛の人は大輪の薔薇のような風情で、呉先生は野のスミレといった感じなのは事実だ。
「ああ、うわさのゲイバーですよね。行ったことはないのですが、店に行ったら奢って貰えるのですか?コーヒーに砂糖とミルクは付けますか?」
 呉先生がデスクから立ち上がって白衣の裾をツバメのようにひるがえしている。
「呉先生のコーヒーはとても美味しいのですよ」
 祐樹が耳打ちしたら夏輝は目を輝かしている。
「そうなんですか?それは楽しみです。そうです。『グレイス』で田中先生と香川教授に偶然お会いして、たまたま教授が興味を持たれていた『行き過ぎたDEI』について説明をしたんです」
 呉先生は可憐な顔に興味津々といった表情を浮かべている。
「夏輝さんの説明はとても分かりやすかったですよ」
 呉先生の手が魔法のように動いてコーヒーを作っている。なぜこんなにコーヒーを淹れるのは上手いのに、料理が出来ないのかが不思議だ。
「そうみたいですね。香川教授も褒めていらっしゃいました。それにしても、タダでお酒が飲めるのですか……。ゲイバーってそういう店なんですね……」
 呉先生はいたずらな子猫のように興味を示している。
「いや、奢るということは下心があるからで……。『グレイス』は大丈夫みたいですけれども、悪質な店ではカクテルに薬を仕込み意識が朦朧となったのを見計らって犯罪行為に及ぶという例もあるので、お勧めできません。そうですよね?夏輝さん」
 呉先生がその気になれば「グレイス」の住所を調べるのは容易だろう。一人で行ったことが森技官にバレたら、とばっちりの報復が祐樹にまで及びそうだ。
「そうですよ。先生のような綺麗なかたが店に行ったら大変な騒ぎになります。パートナーはいらっしゃるのですか?」
 夏輝には恋人がいると前もって教えていたが、夏輝は知らぬ存ぜぬで押し通すつもりらしい。まあ、他人である祐樹から聞いたというよりも直接聞くほうが角は立たないと考えたのだろう。呉先生も普段以上に友好的な笑みを浮かべている。
「味にうるさそうな田中先生が褒めるコーヒーも楽しみです。ミルクと砂糖は多めでお願いします。本当はブラックが大人って感じで憧れるのですが、舌が子どもなんです……」
 夏輝も若さが匂うような笑顔を浮かべている。
「ブラックコーヒーに憧れるのは何となく分かりますが、好みの問題ですからね。パートナーはいますが、東京から戻ってこないんですよ」
 呉先生の言葉を誤解したのか夏輝の顔が曇った。

―――――

もしお時間許せば、下のバナーを二つ、ぽちっとしていただけたら嬉しいです。
そのひと手間が、思っている以上に大きな力になります。

にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説へ
にほんブログ村

小説(BL)ランキング
小説(BL)ランキング

PVアクセスランキング にほんブログ村
Series Navigation<< 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点18「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点19 >>

コメント

タイトルとURLをコピーしました