「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 8

「気分は下剋上 知らぬふりの距離]
This entry is part 31 of 35 in the series 知らぬふりの距離

この作品は、夏輝の父・有瀬誠一郎が搬送される前の、香川教授視点です。
毎日更新は無理ですが、時間のある時に不定期更新します。
教授がナツキのことをどう考え、祐樹も知らないうちにどう行動したのか――
気になる読者様に読んでいただければ嬉しいです。

「ああ!もうイライラする!」
 呉先生は、正しく切れ目の位置に力を加えていたはずなのに、なぜかその部分がぐしゃぐしゃになってしまっていた。そして、中のしっとりとした生地までが、ほろほろとこぼれだしてきている。
「貸してください」
 なぜ、きちんと切り口が分かっている場所に力を加えたにも関わらず、こんな惨状になってしまったのか、さっぱり分からない。
「すみません。お願いします」
 呉先生の手先の不器用さは知っていたが、普通は切れ目に沿って力を入れさえすればいいだけで、何の工夫もいらないだろうと思ってしまう。まあ、フィナンシェなので、ぽろぽろと崩れ落ちた生地も集めて食べればいい。これがイチゴのホールケーキだった場合は見た目で若干の食欲は削がれてしまうだろう。
「どうぞ」
 切れ目ではない側も山形にギザギザが刻まれていたので、その小さな山の先端を切り、中の生地を取り出した。
「わあ!ありがとうございます。流石は外科医ですよね」
 ……外科医でなくとも切れ目に沿って力を加えれば無事に取り出せたのにと思ってしまった。
「いただきます」
 呉先生に軽く頭を下げたのちにフィナンシェを口に入れた。バターの濃厚な香りと味、そしてアーモンドの芳香とほろ苦さが調和してとても美味だった。
「呉先生のご推薦通り、とても美味しいですね。アーモンドがこんなにフィナンシェに合うと全く知らなかったです」
 呉先生は朝日に照らされたスミレのような笑みを浮かべていた。
「そうでしょう?私も食べてみて驚きました。こんなに美味しいのかと。特にアーモンドの苦みがいい仕事をしていると思いませんか?」
 呉先生が淹れてくれたコーヒーを飲むと口の中でバターの油分とアーモンドの香りと絡まって極上のシンフォニーを奏でていた。祐樹は「貴方の淹れて下さるコーヒーが世界一美味しい」とよく言ってくれるが、もともとは呉先生が淹れたコーヒーを祐樹が褒め、自分が教わった。
「こういうちまちました作業は苦手なのです……。果物も剥くのが面倒なのでミカンかバナナしか買って食べないですね。患者さんにおすそ分けでもらった『千疋屋』のメロン、放置していたらカビが生えてしまって、もったいなかったです」
 ……天下の千疋屋の店員さんが聞いたら泣くか怒るかのどちらかだと思う。
「……まさか、カットされたスイカの食べ残しを台所のシンクに捨て、そこから発芽したことはないですよね?」
 長岡先生が二回ほどそういうことをしていた。カイワレのようになっていて、驚いたとか言っていたし、祐樹と自分が除去作業に行ったこともある。呉先生も同じようなことをしていそうだ。森技官は「男子厨房に入らず」タイプなので、台所仕事は多分呉先生が必要最低限のみ行っていると聞いた覚えがある。
「え?よく分かりましたよね……。そうなんです。まさに自然の神秘ですよね。水分と日光があれば、種って発芽し、すくすくと育つんですよね。面倒なのでキッチンハイターをかけています」
 思わず天を仰ぎそうになった。
「そもそも、キッチンハイターは除菌や漂白に使います。ですから植物の芽や根を物理的に分解しないです。根っこを引き抜く必要があります……」
 長岡先生の場合は、岩松氏と結婚したら家事は使用人に全部任せ、彼女は副院長としての仕事と人脈作りのパーティなどに参加すればいいらしい。しかし、呉先生の場合は家事を全てしなければいけないというのに……。
「そうなんですね。とても勉強になりました。これからは種も一緒にプラスチックごみとして収集日に捨ててしまいます」
 ……そちらのほうが簡単だが、スイカの種は燃えるゴミの日に出さなければならないのではないだろうか。
「それはそうと、ゲイバーで出会った若者の件でしたよね?ご存知のように大学病院では人との出会いも限られてきますよね?どういった点が気に入ったのですか?」
 呉先生が二個目のフィナンシェに手を伸ばすよりも早く、袋を破いて手渡した。
「空気を読むのがとても上手いです。そしてさり気ないようでいてとても気配りができる点、そして他人との距離感を徐々に詰めていって……、もちろん拒絶するような人には、そっと距離を置くという配慮もあります。しかし、気が付いたら猫のようにするりと近寄ってくる点が素晴らしいなと思ってしまいました」
 呉先生はフィナンシェを美味しそうに食べながら頷いている。
「なるほど、人間関係構築能力に優れているタイプなのですね。教授は以前そういう能力に欠けていると自覚なさっていましたよね?しかし、最近では率先して声かけをして改善なさっているとお聞きしました。それはそうと、その若者と銀行はどんな関係があるのですか?」

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