- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」1
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それは、彼女が倒れた時に咄嗟に頭部をかばったことだ。頭部への打撃による脳が損傷するリスクは、この救急救命室では常識である。
「お大事になさってください。天使のような杉田師長に甘えて、有給を消化しつつゆっくりと休んでくださいね。我々も身体が資本なのですから」
杉田師長はまんざらでもない笑顔を浮かべている。
「田中先生、ありがとうございます」
頭を再び下げた彼女は、ふらりとよろめいた。
「ちょっと!清水先生、まだいる?」
甲高い声がほぼ無人の処置室に響いた。有瀬誠一郎さんの意識はまだ戻っていないが、機械の警告音は聞こえない。
「はい、杉田師長」
清水研修医が、医師休憩室から顔を出している。
「お願いなんだけど、斎藤を正面玄関のタクシー乗り場まで送ってくれない?微熱があるから一人にはできないのよ」
清水研修医は、真面目な表情で頷いている。これが久米先生だったら、「え!?今からゲームをしようと思っていたのに」などと余計なことを言って祐樹か杉田師長に頭を叩かれるに違いない。
「良ければ車いす使いますか?」
京都一の私立病院の御曹司は、よく気が回るなと感心した。
「……そんな、それは大げさです。大丈夫です」
清水研修医はレディをエスコートする貴公子のように歩み去った。
「あの二人、何だかいい雰囲気ね。付き合えばいいのに……ああ、MRIとCTをポーンと寄付してくれた太っ腹な清水病院長だけど、派閥っていうの?結婚にはそういうことも考えなきゃならない立場だもんね。『華麗なる一族』のドラマ見たけどさ。あんな感じなのかしら?だったら無理よね……」
祐樹は曖昧に頷いた。「例の地震」で清水研修医の外科医としてのポテンシャルの高さを知った最愛の人と祐樹が「香川外科に入れたら精神科の真殿教授が絶対に怒る」と救急救命室との兼務を打診したら大喜びだったのは事実だ。そしてボロかったMRIとCTを寄付、さらに清水研修医の給料も、「授業料」という名目で清水院長が息子に払っている。赤字に悩む救急救命室にとっては、まさに救いの神のような存在だった。しかし、結婚となるとどうなのだろう?
そこいらの街のクリニックといった久米先生のお母さまは、息子の婚約者が看護師というだけで難色を示し、今日の夕方に長岡先生から呼ばれ百合の花粉や、薔薇のトゲといった「悪意に満ちた贈り物」を知らされたばかりだ。あえて何も言わずスルーしたほうがいいだろう。
「師長、派閥ではなく閨閥です。結婚によって、親戚になり色々な便宜を図ってもらうみたいですよ。政略結婚ともいいますが。それはそうと、外の空気を吸いに行ってきます」
杉田師長は頷きながら「ケイバツ、けいばつね」と呟いていた。
「では、行ってまいります」
杉田師長が居てくれるなら有瀬誠一郎さんも安心して任せられる。家族控室に入っていくと、夏輝はスマホを見て口をへの字にしている。きっとお母さまとの連絡がまだつかないのだろう。
「お待たせしました。心臓外科の受け入れに時間がかかっていますが、容態は安定していますので今のところは問題ありません」
夏輝は明るい笑顔を浮かべてお辞儀をしている。飾り気のない白いTシャツも夏輝の身体のラインを露わにした。それは別にいいのだが、何となく違和感を覚えた。
「さて、一人になりたいときに行く隠れ場所にお連れしますね。ちなみにその場所を知っているのは私と、そして夏輝さんもご存知の私の恋人だけです」
夏輝はおずおずとした表情を浮かべている。
「かが……いや、彼女さんしか知らない場所に僕なんて連れて行ってもいいんですか?」
慌てた感じで回りを見回したのは、うっかり最愛の人の苗字を言いかけたからだろう。そして誰もいないと確認して小さな笑みを浮かべている。
「なんの変哲もない場所ですよ。ただ、人が来ないので、余計な気遣いをすることがないので。『彼女』も別に夏輝さんを案内したからといって怒るような人でもないです」
京都には小さな神社が数えきれないほどあって、そのうちの一つだ。大学病院の正面玄関からは距離はあるものの、救急救命室との直線距離は約二百メートルで救急車のサイレンが聞こえたときにダッシュすれば、その到着よりも早く戻ることができる。祐樹は、自販機の前で立ち止まり、夏輝を振り返った。
「何か飲みますか?」
祐樹は、愛飲しているブラックコーヒーの商品ボタンを押した。
「ブラックコーヒー、いや……カフェオレにします」
夏輝はスマホをタップして赤い画面に見覚えのあるロゴに変えている。夏輝の気遣いは嬉しかったが、彼を制して祐樹のスマホをかざした。
「ブラックコーヒーのほうが大人っぽいかなって思ってたんですが――」
夏輝はさり気ない動作で回りに人がいないか確かめている。
「そして、何となくゲイっぽいかなって思っていたんですが、やめました。ゲイぽく見えるかどうかを考える僕自身が自然体じゃないって感じたんです。――だから」
夏輝は本当に美味しそうにカフェオレを飲んでいる。最愛の人ほどの精緻な美しさを持っていない夏輝だが、「午後の紅茶 ミルクティー」を飲む彼とどこか似ているような気がした。
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