「気分は下剋上 巻き込まれ騒動」97

「気分は下剋上 巻き込まれ騒動」
This entry is part 23 of 25 in the series 気分は下剋上 巻き込まれ騒動

「あと、二ミリほど奥に入れるイメージで行うと完璧です」
 祐樹の再度のアドバイスに真剣そのものといった呉先生が華奢な指を動かしている。
「そうです。それが正しい動作、いえ手技です」
 最愛の人も集中した様子で呉先生の指先を見、そして白薔薇のような笑みを浮かべている。呉先生の表情も咲き切って安堵したスミレの花のような笑みに変わった。
「私しかコイツの足にリドカインを注射できる人間はいないですから、必死でした」
 華奢な肩を竦めて、萎れかけたスミレの花のような笑みへと切り替えている。
「尤も、厚労省にはもっと上手な技官がいるかもしれないですけど……」
 森技官は、苦み走った整った顔に笑みを浮かべた。
「私の知る限り、医療実技に長けた人はいないです。もし、いたとしても私はあなたに打ってほしいですね。愛情と真剣度が異なりますし、安心感という点でもあなたに軍配が上がります」
 呉先生は熱中症のスミレのような雰囲気だった。
「お前、オレを買いかぶりすぎ!でも嬉しい。ちゃんと打って見せるから安心しろ」
 呉先生の頭に、森技官の大きな手が伸びてぽんぽんと軽く叩いている。その微笑ましい愛情表現に、祐樹は最愛の人と微かな笑みを共有した。
「とにかく私は全力で清川大臣をお守りします」
 きっぱりと言う森技官の迫力は背中に炎が燃えているような感じだった。彼がそこまで言うのだから大丈夫だろう。
「そもそも大臣は、国や地方自治体が五十代引きこもり男性の社会復帰の第一歩としてのプランが遅々として進まず、しかも『社会的な死亡』と認定されない、死亡を隠蔽せざるをえない人のことを考えています。先ほどの自由な時間に清掃活動をし、LINEで報告が途絶えたら担当者が訪問するというシステムへの理解が得られていないことに苛立っておられました。だから首相を始めとした大臣が私的に集まって会食し、アルコールが回ったせいでつい本音が出たのだと思います。親の年金を食いつぶすのも社会制度を理解出来ていないせいというのも大きく、担当者が指導や相談に乗ることも出来ます。『八十代の両親がピンピンコロリと死ね』という発言も看取る人がいるという前提の発言だったと思います。コロリと人がいる前で倒れ、病院に搬送して死亡が確認されるという今まで当たり前だったことが崩れているという危機感から出た言葉です。それは清川大臣のことをよく知る私が保証します」
 ……いや、祐樹に保証されても何の意味もない。ただ、森技官の覚悟は、よく分かって最愛の人に感心の眼差しを送った。彼も切れ長の目に同感だとでも言いたそうな光を湛えて祐樹を見ている。
「引きこもりの支援か……。オレも手伝えることがあったら何でも言ってくれ。社会から孤立しているのは精神疾患の温床だから」
 ヘリコプターの音が徐々に近づいてくるなかで、呉先生は決意を込めて咲くスミレといった趣きだった。
 ヘリコプターが着陸態勢に入った。
「では、ここでお別れですね。香川教授、田中先生本当にお世話になり、まことにありがとうございました」
 森技官が洗練された所作で深々とご辞儀をしてくれた。
「いえ、至りませんで……」
 救急救命室の治療代が森技官から支払われることは病院にとってプラスだが、祐樹への報酬ゼロというのは20%納得しがたいので、こういう中途半端な返事しかできなかった。
「田中先生はこんなに難易度の高い注射を毎日のようになさっているのですね。改めて尊敬します」
 森技官に返礼と激励の言葉を告げていた最愛の人は、呉先生の発言に祐樹よりもよほど嬉しそうな大輪の笑みの花を咲かせている。
「――そして、教えてくださったことは絶対に無駄にはしません。それにしても、香川教授と田中先生にネカフェから助けを求めたことが、遠い過去のような気がします」
 呉先生の言葉に心の底から同意した。最愛の人もネカフェのことは頭の隅に追いやっていたようで、切れ長の目に淡いセピア色の光を宿している。
「私、いや祐樹と私でお役に立てることがあれば……」
 確認するように祐樹を見、祐樹が頷くと薄紅色の唇を再び開いた。
「私たちでお役に立てることがあれば遠慮なくおっしゃってください」
 遠ざかっていく、ヘリコプターを見送って、スタッフさんにお礼、特にコーヒーが美味しかったことを最愛の人が柔らかい笑みで言っていた。
 祐樹の愛車へと戻り、今度こそ最愛の人を助手席に乗せた。彼しかこの席に座る権利はないと思っていたが、今回の森技官はノーカンにしよう。エンジンキーを回して発車した。ちなみに今の車では珍しいキーを回してエンジンを稼働させる点も気に入っている。
「あんな森技官は初めてみた……」
 最愛の人がしみじみと言葉を紡いでいる。森技官は最愛の人に対して、当たりが柔らかく、祐樹には辛辣だ。そんな彼が言うのだから間違いはない。
「そうですね。歌舞伎役者などのお辞儀の仕方と同じでした。お育ちが良いからなのか、外務省の官僚のようにどの国に行っても日本人として正しい所作をと思って意識的に直したのかは分からないですが、あのお辞儀の仕方は真似したいです。何しろ、患者さんの遺族に『最善は尽くしましたが残念ながらお亡くなりになりました。力及ばずで申し訳ありません』と告げる時にはああいった感じでお辞儀をしないとなと思いました」

にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説へ
にほんブログ村

小説(BL)ランキング
小説(BL)ランキング

PVアクセスランキング にほんブログ村
Series Navigation<< 「気分は下剋上 巻き込まれ騒動」96「気分は下剋上 巻き込まれ騒動」98 >>

コメント

タイトルとURLをコピーしました