「祐樹っ!」
普段は滅多に声を荒らげることのない最愛の人が、思わず叫んだのと、路地に何かが落ちた音が同時だった。思わず下を確認したが幸いなことに無人だった。そして、その声音には、切羽詰まったような焦燥と、深く息づく愛情が入り混じっていた。その声と同時に、指先まで神経の行き届いたような、研ぎ澄まされた細身の腕が、祐樹の背を抱きとめる。その細さに反して、芯には鋼のような力が宿っていた。
「祐樹、よかった……」
その声は鋭さの中にもどこか紅色の響きを持ち、胸の奥に届く鈴の音のようだった。
「ありがとうございます。――ここで転落死なんて洒落にならないですから。私だけならまだしも、貴方に、そして杉田弁護士にも迷惑が掛かります。屋上に二人きりでいる状態でしょう?しかも階下には『グレイス』がありますよね?万が一警察に『そういう関係の揉め事』とでも思われたら、貴方にまで迷惑が……」
「かかるところでした」と言いかけた祐樹は、最愛の人の秀でた額に、玉のような汗がにじんでいるのに気づいた。どんな難手術でも顔色ひとつ変えない最愛の人が、今は確かに祐樹のことで動揺している。その事実が、祐樹の胸を静かに、しかし激しく締めつけた。胸の内を占めたのは、痛むような後悔と――それでも、なお滾るような愛しさだった。
「――祐樹、怪我はしていないか?」
彼は祐樹の顔を心配そうに見ている、いや診ているのかもしれない。鉄製と思しきフェンスにも、破傷風菌などが潜んでいることもあり得る。最愛の人はそれを心配してくれたのだろう。もしくは単純に手の怪我かもしれない。祐樹は大げさな動作で手を振ってみせた。
「怪我なんてしていませんよ」
優しく宥めるように笑った。
「たとえ少し擦ったとしても、破傷風などは初期の処置さえきちんとすれば、ほとんど問題にはなりません」
最愛の人の瞳に浮かぶ不安を、ひとつひとつ言葉で拭うように言葉を紡いだ。そして、もう一つの懸念を晴らそうと、無言のまま、両手をゆっくりと最愛の人へと差し出した。節ばった長い指が、山百合の花弁のように一枚ずつ反りながら開いていく。そして、再び静かに閉じる動きは、外科医としての命が今も生きていると最愛の人に告げていた。その祐樹の仕草を、息を殺して見つめていた最愛の人は――まるで大輪の紅薔薇が花弁をふるわせて吐き出したため息にように、深く、静かに安堵の息を漏らした。「ご心配をおかけして申し訳ありません」
頭を下げると最愛の人は朝露がびっしりと宿っている白薔薇のような笑みを返してくれた、祐樹はポケットからハンカチを取り出すと、彼の額の汗を拭った。
「凱旋帰国のあとしか知りませんが――貴方の額の汗を拭ったのは私が初めてですよね。『手術の時に汗をかかない香川教授は、すごいというか拭えなくて残念だわ』と手術室の看護師が言っていました」
最愛の人は首を傾げている。
「そういえば、アメリカ時代も汗を拭ってもらったことはないな。手術前に最悪の想定を済ませているので、焦ったことがないからだと思う。さっきはもうどうしていいのか分からないほど恐怖だった。しかし、祐樹が無事で本当に良かった……」
夜に咲いている薄紅色の薔薇ようなほのかな笑みがとても綺麗だった。
「それはともかく、貴方の初めてになるのは何だって大歓迎です」
丁寧に拭い終えた後に、再び手を繋いで給水塔へと移動した。「フェンスとは異なって、こちらは丈夫そうですよ」
念のために叩いて確かめた後に二人して座った。
「祐樹……」
首を傾げて、キスをねだる最愛の人の薄紅色の唇ではなくて、額に唇を落とした。祐樹の唇は甘い塩気を感じ取った。数えきれないほどのキスを最愛の人と交わしてきたが、こんなに甘くて――まるで夏の果実の汁が乾ききる前に似た、透き通るような苦さを孕んだ汗の味も初めてだ。額から滑らかな頬、そして唇へと唇を落としていく。
「ご心配をおかけしたお詫びに、今日はいつも以上にゆっくりと丁寧に聡を愛しますからね」
二人の唇に銀の細い橋がかかっては空中に消えた後に愛の言葉を紡いだ。
「私は祐樹がしてくれることは何でも嬉しいのだ。祐樹は私が嫌だと思うことは絶対にしないだろう?だから安心して抱かれることが出来る。んっ……」

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