「夏輝さん、お父さまのことで大変なときにお時間を割いていただきありがとうございました。貴重な意見を伺ったので、絶対にこの病院からセクハラを根絶させます」
夏輝は、祐樹が深く頭を下げると「とんでもない」と言わんばかりに、手を小さく左右に振っている。祐樹個人としては、最愛の人のしなやかな腕と比較にもならないが、若々しく瑞々しい腕はそれなりに魅力的だ。その弾力のある肌を見ていると、真殿教授に左遷させられた、黒木准教授の友人――精神科の山先生の言葉が脳裏をよぎった。
「人の心は風船のようなもので、抑うつ状態になっている患者さんはその風船の空気が漏れて弾き返そうとする力が失われてしまっている」――夏輝は過去に望まない体験を多く経験してきたようだが、夏輝の心の風船は嫌なことを弾き返す力が、むしろ余るほど備わっていたのだろう。そして、その過去の痛みを未来への原動力に変える力を持っているような気がした。
正直なところ、三好看護師は、病院内のルールや、モラルに厳しい女性だと祐樹は判断している。「例の不倫騒動」のときに知ったのだが、逢瀬の密会場所になる可能性のありそうな倉庫などを見つけたら、床や段ボールなどに、こっそり画鋲を仕込んでいたという徹底ぶりだ。看護師は清拭をする関係上か、性行為にも抵抗がなくなる人も多いと聞いている。その一方で潔癖な人もいる。三好看護師は疑いもなく後者だろう。そういう女性でも「内緒よ」とジュースを奢らせる、そういう不思議な魅力が夏輝にはある。
「ちなみになんですけど、香川教授は、甘いものがことの外お好きですよね?田中先生はまるっきり興味がなさそうでしたけど……」
口調は疑問形だが、アーモンドの形の瞳には確信めいた光が宿っていた。最愛の人が呉先生の不定愁訴外来で洋菓子を弾んだ指で口に運んでいたからだろうか?
「その通りです。よく分かりましたね。どの段階で気付きましたか。やはり不定愁訴外来で、ですか」
夏輝は猫のような目で祐樹を見上げた。
「『グ』――あのお店で会ったときです。甘いお酒を飲んでいるときの教授のお顔と、僕が勧めた『響』とでは微妙に表情が異なっていらっしゃったので」
夏輝は「グレイス」と言いかけて思い直した。黒木准教授乱入のような不測の事態を避けたのだろう。祐樹は夏輝の観察眼の鋭さに内心舌を巻いた。最愛の人は、祐樹と二人きりのときに限って笑い声を立てたり驚きに目を見開いたりするが、病院内では常にポーカーフェイスを貫き、まるで氷の壁のような近づきがたい雰囲気をか漂わせている。――徐々に大学病院になじんで、呉先生という親友や内科の内田教授・小児科の浜田教授のように親しく交流する人たちが出来てかなりマシになったと祐樹などは喜ばしい思いで見ていた。それはともかく、夏輝は、ゲイバー「グレイス」で初めて会ったときには、よくいる自分のことしか考えていない、よくいる自己陶酔型のネコの青年としか祐樹は思っていなかった。
祐樹も最愛の人と出会う前は情緒不安定な「かりそめの恋人」に振り回されたことも数回あった。「死ぬ」と言って脅したり、祐樹を執拗に追い回すストーキングまがいな行為に及んだりした。会社員と言っていたのに大学病院まで特定されそうになったのはさすがに肝が冷える思いがした。最愛の人と呉先生が今診ているだろう、兵頭さんの抑うつ状態に「祐樹はここに居ても役に立たない」と判断したのも確かだが、若気の至りの「火遊び」でいわゆるメンヘラが苦手になったというトラウマも影響しているような気がした。「グレイス」にいる割と綺麗な青年と夏輝は根本が異なっているように思えた。
「チラッと先生がたの会話を小耳に挟んだのですが、香川教授はセクハラ禁止条項作成のために残業なさるとか。僕、これからデパートに行ってケーキを買いますが、教授に差し入れもしたいなと思っているんです。それって迷惑ですか?」
最愛の人は祐樹以上に夏輝のことを気にかけている。多分だが、夏輝に自分にはないものを感じ取って見守りたいと思っているのだろう。
「お喜びになるかと思います。医局の医師に『香川教授に渡してください』と言えば執務室まで持って来てくれますよ」
流石に教授執務室階の廊下をTシャツ姿の夏輝が歩けば、違和感を覚える教授たちが出てくる可能性が高い。
「分かりました。では、買いに行ってきますね!」
弾むような足取りで廊下を歩む夏輝を見送って医局に戻った。黒木准教授と共にパソコンの画面を見てキーボードとマウスを操作していた遠藤先生が、祐樹の気配に気づいたのか顔を上げ、気の毒そうな表情を浮かべている。その憐憫の眼差しに、思わず眉をひそめた。そして祐樹のデスクを見て絶句した。
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