「すみません。お二人の話が耳に入ってきてしまいまして」
黒木准教授は頭を下げた。黒木准教授が会話を聞いていたこと自体はさほど問題ではない。それよりも、彼がゲイバー「グレイス」に通っているかどうかのほうが気になる。最愛の人と出会う前の祐樹のように、会社員とでも自称していれば常連の杉田弁護士も気付かないだろう。そして、祐樹が彼と付き合い始めて足が遠のいたが、最愛の人の大輪の花のような美しさは「グレイス」では語り草になっているらしい。しかも本名で、だ。黒木准教授は、同好の士が勘で分かる祐樹がみても異性愛者なのに、どうしてゲイバーに足を運んだのだろう?「香川教授また来てくれないだろうか」などの会話が耳に入ればいよいよまずいことになる。いや、黒木准教授は自他ともに認める「香川教授の女房役」なので、たとえ知っていたとしても、口外はしなさそうだ。いっそのこと、この機会に二人の真の関係を言ってしまうべきかもしれない。これ以上二人の仲を知っている病院関係者を増やしたくないのが本音だが、黒木准教授なら絶対に口外しないだろう。ちょうど世の中は「多様性を重視しろ」というムーブが起きている。その流れに乗じてカミングアウトすべきだろうか。今、二人の顔を見比べて友好的な笑みを浮かべている夏輝、その夏輝の知り合いはゲーマーらしく、ゲームの世界にゲイのカップルのラブシーンが増えていることに不満を感じているらしい。ただ、それをネットなどで言うと「レイシスト」というリプライが返ってくるとか言っていたような……。誰だって「差別主義者」などとは呼ばれたくはないだろう。祐樹の頭はまるで走馬灯のように色々な思考が浮かんできていた。
「――グレイス・ケリーのお話ですか。私も大ファンでして、つい口を挟んでしまったのです」
……そっちかよ!と半ば安堵し、半ば立腹した。何しろ祐樹は必死に対応策を考えていたのに、それが全て白紙になってしまったのだから。
「え?えと……、大女優として有名で、その後……モナコの王妃様になった女性ですよね?エルメス・ケリーバックの名前の元になった女性ですよね?母もケリーバッグを持っていて、『勝負バッグ』と言ってます。何でも絶対に融資を通させないとダメなときに、銀行に持っていってますね。結果は全勝らしいです。きっとグレイス・ケリーのご加護っていうのかな。ご利益かもですが、きっとそういう力があるんでしょうね」
祐樹の脱力を察したのか、夏輝は手持ちの知識を総動員して場をつなごうとしているようだった。
「はは、それは素敵な話ですね。あの有名なシーンですね。妊娠中だったお腹をバッグで隠したという……。華やかなハリウッドの頂点に存在したにも関わらず、それを捨ててモナコの王妃になった――その潔さが好きなのです。私の育った土地では映画館などはありませんでした」
黒木准教授は懐かしそうな目をしている。確か町か村には一軒しか医院はない富山かどこかの寒村の生まれだと聞いているが、今は回顧に耽っている時間ではない。夏輝にセクハラ当事者としての気持ちを聞きたい祐樹は話題がどんどんズレていっていることに焦ったが、准教授の話をさえぎるような真似はこの旧態依然としたヒエラルキー制度が根強く残っている大学病院では不可能だ。
「唯一、公民館で観た洋画がグレイス・ケリーの出ていた映画だったのです」
夏輝は目を真ん丸にして聞いている。夏輝は東京の豊かな家に生まれたし、公民館で映画を観るということ自体が驚きなのだろう。祐樹だって京都府の日本海側出身で、京都市民からすれば「田舎者」だが、映画館はあった。まあ、黒木准教授との世代の壁はあるだろうが。
「スクリーンの中の彼女は、雪の降る町とはまるで別世界の人でした。しかし、不思議と冷たくは見えなかった。どんな華やかさの中にも、静謐な品格というか……人を思いやる眼差しがあったのです。それ以来、彼女は私にとって『理想の上品さ』の象徴なのです」
夏輝は感心した眼差しで准教授を見ている。
「へぇ。深い話ですね」
いや、話の深さなんてどうでもいい。頼むから夏輝のゲイバー「グレイス」の話に戻ってほしいと思ったが言えるわけもない。
「僕、まだまだ修行中なんですけど、夢はハリウッド女優の専属美容師です。だから、知っておく必要がありますよね?」
夏輝も先ほどの祐樹との話を忘れたのか、それともエルメスが名前を付けたほどの元大女優にひかれたのか話題を深掘りしようとしている。
「マリリン・モンローとオードリー・ペップバーンと並ぶ女優です。個人的にモンローは男性に媚びているように見えて、そこが少し苦手です」
祐樹はそんな往年の大女優なんてどうでもいい。夏輝にネコとして嫌だったことを聞きたいだけだ。
「そうなんですね」
夏輝は真剣な表情で頷いている。表面はにこやかに、しかし内心はじりじりしながら二人の会話を聞いていた。ハリウッドでは今も大御所元監督が強大な発言力を持っていると最愛の人が言っていたのを思い出した。そういう人たちは、黒木准教授よりもずっと年上だろう。先ほどの三好看護師といい、黒木准教授までもが夏輝に心を開いて話しているようで、この資質はハリウッドに行っても使えるだろうなと暇つぶしに考えていた。どうにかして、黒木准教授に席を外してもらいたいと思ったが、うまいきっかけが見つからず、祐樹はもどかしさを感じた。
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