そのメンズナース達の厚意は受け取ったが、果物かごの中身はどうでもいい。
「久米先生、ほんのお礼の気持ちです。メロンやマンゴーなど何でも好きなだけ召し上がってください」
祐樹の言葉に久米先生は、歓喜の踊りを舞うカバのようだった。その奇妙なダンスを見なかったことにし、祐樹は医局のドアをスライドさせ、左右を見たが夏輝の姿はどこにも見えなかった。多分、父・有瀬誠一郎氏の病室にでも行ったのだろう。有瀬誠一郎氏の容態は極めて安定しているので、夏輝も四六時中ついている必要はない。だから病室を出て病棟を見て回っているのだろう。いや、見学というか散策かもしれないが、二十一歳の夏輝にじっとしているというのも酷なのかもしれない。
「谷崎さん、お加減はいかがですか?」
夏輝と話すのは後回しにして主治医を務める患者さんの病室を回ろうとした。
「田中先生、私はいたって順調です。それはそうと、この病棟に何かあったのですか?看護師さんも常になくピリピリしているのを必死に隠そうとしているようです」
谷崎さんは一代で一部上場企業にまで会社を発展させたと聞いている。それだけに人を見る目にも長けているのだろうし、香川外科の優秀な看護師の普段と異なる点もすぐに分かったのだろう。こういう人には嘘をついたらかえって逆効果だ。祐樹の嘘も簡単に見破り、今まで築いてきた信頼関係も崩れてしまうだろう。
「実は、いわゆるコードブルー案件がありまして」
肩を竦めながら祐樹が言うと、「なるほど」といった感じで頷いている。この患者さんも病室にiPadを持ち込んでいて、「普段はドラマを見られないんですよ。この機会に堪能しようと思って」などと言っていた。だからコードブルーの意味も分かるのではと思って言ったが、どうやらビンゴらしかった。
「それは大変ですね。私は全く問題なく過ごしていますから、次の患者さんを回ってください」
普段ならこの谷崎さんは「日経平均株価が史上最高値を記録しているのに、バブル期のような高揚感が世間にはないのは何故なのか」などの考察を祐樹にとうとうと語っているような人だ。祐樹は株式投資をしていないので、ニュースで見ても所詮遠い世界の出来事としか思えない。しかし、その考察を最愛の人に言ってみると「ほぼ正解だ、と、どんな経済学者でも言うだろうな」とのことだった。谷崎さんも空気を読んだのか、祐樹に頭を下げて次の患者さんへと行けという意思を示してくれた。
「では、また参ります。お大事になさってください」
他の患者さんも一様に同じ反応だった。「自分は良いから、コードブルーの患者さんに対応してほしい」といった感じで、祐樹も患者さんの温かみを感じた。有瀬誠一郎さんのベッドでも同様の反応で、祐樹としては効率よく回れたなと思った。
兵頭さんの件がなければもっと有瀬氏と話したかった。何しろ、祐樹は有瀬氏の眼差しに、一般的な男性とはどこか違うものを感じていて、その違和感の正体を出来れば知りたかった。そういえば、今さっき祐樹が病室に入っていったときにも、祐樹の後ろに誰かを探すような眼差しを浮かべていた。誰かというのは順当に考えれば妻の香織さんだろう。何しろ妻としての役割に加え、「S&Kカンパニー」の経営を支える片腕として、多大な信頼を寄せているのだから、入院沙汰になった今、妻に弱音を言うというのはありがちなことだ。
父・誠一郎氏のベッドの近くに座っていた夏輝に「ついて来てください」という合図をこっそりと送った。夏輝は即座に分かったといった感じで小さく頷いた。
「田中先生、実は三好看護師に『内緒ね』と言って自販機のジュースを奢ってもらったんです。お返しをしたいと思うのですが、病院内での規則とかよく分かってなくて……。何で返せばいいんでしょう?」
廊下を二人して歩いていると夏輝が小さな声で言った。そういえば兵頭さんの件が起こる前に夏輝は三好看護師と話していたと思い出した。三好看護師は全力疾走で駆けつけてくれた呉先生に「廊下を走らないでください」というある意味当たり前の注意をしていて、院内規則を破るタイプではない。それなのに夏輝にジュースを奢ったというのはよほど夏輝のことが気に入ったのだろう。女性の心にするりと入り込む夏輝は、彼の夢でもあるハリウッド女優の専属美容師に向いているような気がした。
「そうですね。お金を贈るというのは、香川外科で厳重に戒めているのです。露見したら大変なことになりますが、教授は患者さんの感謝の気持ちの表明でもある、昼食の差し入れは喜んで召し上がっています。ですから、お弁当などの生ものを差し入れるのが一番だと思いますよ」
兵頭さんの件があったせいで看護師たちも早く仕事を片づけてナースステーションに戻ろうとしているのか、普段以上にテキパキと職務をこなしている。祐樹と並んで歩いている夏輝に誰も注意を払っていないのは好都合だ。
「じゃあ、こんなのはどうでしょう?」
人の気配のない自販機の前に来た夏輝はゆっくりと口を開いた。
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