「こうして見る月は本当に綺麗だ」
祐樹の肩に頭を預けた最愛の人が夢見るように呟いている。
「そうですね。二人で同じ物を見ている、そして徐々に南中へと至っていく過程をのんびりと眺める月は最高です」
空には雲一つなく冴え冴えと光る満月が空中を制するように輝いている。そして、お湯の湯気を纏った銀色のススキがそよ風にそよいでいる。鈴虫の澄んだ鳴き声がどこからともなく聞こえてきて、時折、言葉を交わす二人の声を銀色に染めてくれるようだった。
「藤原道長の『望月の和歌』がありますよね。『この世をば 我が世と思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』というものですが。貴方と一緒にこうして露天風呂に入っているだけで、道長の自信満々さよりもはるかに私の心は満ち足りています」
最愛の人の頭の重みがなくなったかと思うと、祐樹の唇に触れるだけの唇の刻印が刻まれた。
「――あの和歌は、八代和歌集どころか、道長の日記『御堂関白記』でさえ載っていない。和歌の出来など、私には分からない。しかし、道長が会心の出来だと思ったり、自分の生涯が素晴らしいと自画自賛したりする場合は、少なくとも自分の日記には記すだろう?」
最愛の人の先程の愛の交歓の余韻を残す艶やかさと、彼の本質だと祐樹が思っている怜悧な声が混じり合っていて、その声が鈴虫の音よりも銀色の言葉を紡いでいる。
「そうなのですか?道長が歌人として有名ではなかったことは私も知っていますが、藤原氏の頂点に君臨し、四人の娘を天皇のお后にしたのですよね。当時は娘の産んだ皇子を次の天皇にし、その後見役である摂政・関白になるのが藤原氏の悲願だったのですよね?それが叶っていたのですから、得意絶頂の和歌としてせめて日記には書きそうですが?」
祐樹は月が映っているお湯を掬い、最愛の人の唇にそっとかけた。
「それが、書いていないのだ。ある貴族が記録していたので今まで残っているのだけれども、家柄だけは道長より上で、しかし出世という点では遥かに劣ってしまっていて、道長のことを悪しざまに書いていた日記を残した藤原実資の『小右記』にしか書かれていない」
お湯にも月が映っていて、見上げれば本物の月というのが贅沢すぎる眺めだ。そして月よりも綺麗な最愛の人の肢体が祐樹にもたれ掛かっているのも最高に幸せだ。
「そういう状況だと、なんだか悪意を感じますね。『下手な歌だから残してやれ』といった……。または、『あいつはこんなこれ見よがしな歌を作って、私のことをあざ笑っているに違いない。腹が立つ』と思って、わざと残したという説が濃厚のような気がします。ちなみにYouTubeで見たのですが、広告はいい加減な内容のものが多いですよね。日本人であれば誰でも知っている有名な富豪や、最近では自民党党首になった女性の演説の動画をAIで加工したのだと思いますが、さもその人が話しているようにし、詐欺を煽る広告の動画などは論外ですけれど」
最愛の人は驚いたように祐樹の肩から頭を上げて祐樹を見ている。
「そんな動画があるのか?」
並みの教授が残業を余儀なくされる仕事を、彼は目覚ましい速さで片づけて定時に帰宅するのが常だった。もちろん患者さんの容態急変などがあれば責任者として対応している。帰宅して料理を作ったりアイロンをかけたりするときにはテレビの音を聞きながらだと言っていたし、朝食の準備をしているときに祐樹が奇跡的に起きていたらテレビが必ずついていた。しかしYouTubeを見る習慣はないらしい。逆に祐樹は救急救命室の凪の時間にスマホで動画を見て時間を潰すこともあって、そういうときには詐欺広告が流れる。何でも課金すれば広告が流れないと聞いているが、祐樹はそんなことにお金を使いたくなかった。
「ありますよ。ソフトバンクの創業者が『日本人限定です。この動画を見た人の中で最も行動的な人にチャンスを与えたいと思います。一日に十五万円を継続的に受け取るチャンスを掴みませんか?』という趣旨のことを言っています。いえ、正しくは口の動きとシンクロさせて言わせていますね」
最愛の人は苦い虫でも噛んだような表情だった。
「彼が投資するのは、今はまだ脚光を浴びていないが、今後絶対に儲かると判断した企業だけだ。決断力という、そんなあいまいなものにお金を費やさないだろうし、一日に十五万円だったら三十日で四百五十万円だ。いくら資産を持っていたところで、何人、いや何百人にお金を配っていたら絶対に破産する。彼は投資家であって慈善事業をしているわけではないので、シンプルに考えればあり得ないという決断に至ると思うのだが?」
最愛の人は珍しく怒ったような声だった。詐欺被害に遭う人のことを思っているのだろう。
「詐欺の場合は『相手に考える時間を与えない』というのが鉄則のようですね。『決断力』というもっともらしい言葉で煽っていますが、今すぐに、深く考えず行動し、言われたままの口座にお金を振り込む人を狙っているのでしょう。AIは確かに便利ですが、悪意を持った人に使われたら最悪ですよね。そういう怪しげな広告では、『織田信長が詠んだ 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス』とか平気で言っています。あれは後世の人が信長の性格だったらこう詠むだろう。秀吉は『鳴かせてみよう』という実力に裏打ちされた自信、家康の『鳴くまで待とう』とチャンスをずっと待ち続けたという歴史を見て詠んだのですよね」
最愛の人は「同感だ」と言うように祐樹の首に口付けてくれた。
―――――
もしお時間許せば、下のバナーを二つ、ぽちっとしていただけたら嬉しいです。
そのひと手間が、思っている以上に大きな力になります。
にほんブログ村
小説(BL)ランキング
PR ここから下は広告です
私が実際に使ってよかったものをピックアップしています


コメント