「臨時教授会でセクシュアルハラスメント禁止条項は当然として、パワーハラスメントの厳禁についても明確に通します。特に真殿教授には、強く釘を刺します」
怜悧な声が凛と響いた。川口さんと西さんは、土下座せんばかりの勢いで頭を下げている。真殿教授のネチネチ・延々とした叱責に加え、いつ怒鳴られるか分からないという恐怖は、祐樹などには想像もつかないほどの強いストレスなのだろう。
「お礼には及びません。教授職としては当然の務めです。今伺った話から精神科の医師や看護師がメンタルを病むリスクは高いような気がします。特に看護師は人手不足なので辞められたら困るのは精神科全体ですよね?それをちっとも分かっていない真殿教授に対し、きちんと誰かが言わなければならないと判断しました」
最愛の人の切れ長の目が深い決意を秘めた煌めきを宿している。
「香川教授、その件は精神科の看護師に共有してもいいですか?というのは、後ろからスマホの画面を見てしまった某看護師がいるんですが、そいつは、退職代行『もうムリ』のサイトを食い入るように眺めていたんです」
今、退職代行なるものが流行っていることは祐樹も知っていた。退職することを上司にどうしても言えない人がそのサービスに依頼し、事務的に退職の意向を伝えてもらうというシステムのはずだ。
「はい。それはもちろんです。むしろ積極的に伝えてください。看護師の人手不足は病院にとって深刻な事態です。またここだけの話になりますが、教授会では『医師よりも看護師に辞められるほうがダメージも大きい』と言われています。それなのに真殿教授は何を考えているのか私にはさっぱり分かりません。貴方たちのようなメンズナースはどこの精神病院でも引く手あまたでしょう。それなのに、大学病院にとどまってくださっています。そのありがたみを真殿教授は知るべきです」
最愛の人の決然とした眼差しは研ぎ澄まされた刃のような光を放っている。
「ちょっと、先生!病棟では走るのをご遠慮ください」
三好看護師の厳しい声に、祐樹が振り向くと呉先生がゼイゼイと息を荒げていた。
「三好さん、すみません。私が急がせてしまったのです」
最愛の人が、代わりに三好看護師に謝っている。彼女は兵頭さんに突き飛ばされたのだけれども、湿布などは貼っていない。柏木先生か久米先生に診てもらって不要と判断されたのだろう。「教授がそうおっしゃるなら仕方ないですね」という表情で、彼女はナースステーションに入っていった。
「わ!川口さん、西さんもいらしたのですね」
息を切らせたまま呉先生はスミレの花のように微笑んでいる。
「呉先生、お久しぶりです。不定愁訴外来にご挨拶にと思いながらも、瞬間湯沸かし器とその取り巻きの目が怖くてついつい足が遠のいていました。それにしても相変わらず身体を鍛えていないんですね。ジョギングを毎日40キロ、お勧めです」
川口看護師が温かい眼差しで苦笑交じりに言っている。「え?40キロ。それはどう考えても無茶振りだろう」ただ川口看護師も西看護師も、呉先生には好意的な視線を向けている。
「それはそうと、教授が依頼した患者さん――兵頭さんというのです――が、暴れたときに取り押さえてくださったのが川口さんと西さんなのです。香川外科の一員として情けないことに、私は吹っ飛ばされてしまいました。彼らがいなければ大変なことになっていたと思います。私も遅まきながら柔道でも習うべきでしょうか?」
最愛の人は絶句したような眼差しで祐樹を見ている。川口看護師はとんでもないと言いたげな表情を浮かべ、ためらいがちに口を開いた。
「心臓外科医、しかも執刀医として最近お名前が急上昇している田中先生が武術をするのはお勧めできません。怪我がつきものなんです。大事な指を骨折したら大変です!力仕事は我々にお任せください」
川口看護師が強い口調で止めてくれた。実際問題、祐樹は忙しすぎて習いに行く時間はない。何しろ最愛の人とのデートですら祐樹の体調を気遣って「今日は出かけるのは止めて自宅でのんびりと過ごすデートにしよう」と言われてしまっているのが現状だ。呉先生のシワだらけの白衣の背をさすっていた最愛の人が、祐樹に淡い笑みを浮かべながら口を開いた。
「田中先生、通常業務に戻ってほしい。呉先生と私そして川口・西看護師がいるので兵頭さんの対応はこの四人で十分だ」
精神科の知識がこの四人に比べると恥ずかしいほどのレベルだという自覚はある祐樹は四人にお辞儀をし、主治医を務める患者さんの病室巡りをしようと思い、その場を離れた。
医局に戻ると、柏木先生が足早に近づいてきた。何故か祐樹のデスクの前には久米先生が、まるで時代劇に出てくる門番のように立ちはだかっていた。しかも何かの事件が起こったような厳しい表情を浮かべている。横幅のある久米先生の体で祐樹のデスクは見えなかったが、彼が守るようなものは置いていないはずだと、祐樹は首を傾げた。
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